孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

穀良都

 「穀良都」

 

 来歴

 「穀良都」の祖先にあたる「都」は、天保三年(1832年)に弘永半助、内海五郎左衛門の二人が、旧藩主に同道して上洛している途中、摂津の国の西宮あたりで見つけて長州に持ち帰り、農民に試作させたものが大元である。その種を得た西宮の、付近に住む住民の話では、「都」の種は二~三年前に船乗りが筑前から持ち帰ったものが元だという。

 明治二十二年に山口県の農民伊藤音一が、この「都」から早熟の性質を示す株を選抜して育成したのが「穀良都」である。性質優良な米として西日本一帯に栽培が広まった。品質も良く、昭和天皇が即位したときにもこの米が献上されたほどだという。

 酒米としても評価が高く、収量の面から主食用米が交配種に切り替わりつつあった時代を経ても、酒造用米として生産が続けられた。

 酒造用米として島根県でも「雄町」や「神力」と同時期に導入された。大正四年に奨励品種として採用され、純系分離によって選抜された「穀良都1号」「穀良都2号」の時代も含めると、昭和七年まで栽培が続けられていたようだ。

 稈長は百センチを優に超える長大なもので、典型的な穂重型。病気や倒伏に弱く、収量は少ない。出穂期は八月末の晩生種で、千粒重は24グラム前後。心白発現率はやや高めで、心白の大きさは中くらい。カタログスペックを読む限り、江戸末~明治初期に流行った大粒晩生穂重型品種を絵にかいたようだ。

 作期的に「雄町」と被り、醸造適性の面では「雄町」に及ばない、という面がネックになったのだろうか。島根県では割合短い期間で栽培されなくなり、その後の品種の交配親として使われることもなかったので「穀良都」の血統は絶えているが、発祥地であるお隣の山口県では、復古米として栽培され、酒造用としてそれなりに使われているようだ(僕も永山酒造というところが造った「穀良都」のお酒を飲んだことがある。)。