孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話②

           

 

 農業は親から子へと脈々と思想や技術が受け継がれていくことの多い家業であるので、代々続く農家さんと話をしていると、思いがけず、歴史的と言っていいほどの古い言葉に出くわして驚くことがある。

 たとえば「年貢」という言葉を、普通に使っているのを聞いたときは感動した。現代での用例としては、田んぼを人から借りる場合、小作料として現金を収める代わりに、その土地で上がった米のうち何俵かを、土地の持ち主に物納することを「年貢」というらしいのだが、まさか歴史の授業以外でこの言葉を耳にするとは思わなかった。

 「金肥」という言葉もおなじく歴史的な用語である。学生時代に真面目に日本史の授業を受けてきた人なら意味はご存じだろうが、僕はそういうタイプではなかったので、この言葉を初めて聞いてからしばらくの間、とんでもない勘違いをしていた。

 僕の住む町では有名な精農家さんのところで、いろいろ農業の話を聞いていた際、その人が「うちは、養鶏場からタダでもらえる鶏糞ともみ殻堆肥がメインで、金肥はほとんど使わんけえのう」と言うのを聞いた。

 「金肥ってなんだ? 」と一瞬考えたが、そういえば昔読んだ「糞尿譚」という、人の排せつ物について書かれた小説のなかでは、人糞のことを「黄金」と呼んでいたよなあ、と思い出した。ああつまり、金肥って人の排せつ物の別称なのかな?

 しかし「ほとんど使わない」ってことは、少量は使っている、という事だよな。いや、まあ、農業では鶏糞とか牛糞とかは普通に使われているし、むしろ積極的に使っていたほうがおいしい野菜を作るためには良い、とか思われていて消費者受けも悪くない。それなのに、家畜糞はよくて人糞は良くない、と考えるほうが論理的にはおかしいことなのかもしれない。

 とはいえ、農産物直売所とかに並んでいる野菜に、「肥料から一貫して私が作りました」という顔写真付きのPOPが飾られていたら、僕なら少し躊躇するだろうし、「この人のがかかっているのか……」なんて、光景を想像するとあまり愉快な気持ちにはなれそうにない。

 だが、昔なんかのニュースで見たのだが、読売ジャイアンツの選手寮で出た生ごみなんかを堆肥化して、それで作った野菜がブランド商品として売られている、らしい。これに糞尿が混じっているのかどうかまでは知らないが、ともかく特に女性ファンの間で野菜の売れ行きは好調だ、などとと書いてあったはず。

 肥料の製造元に対する心理的な抵抗は人それぞれだから、鶏のでもNGとする人は一定数いるかもしれないし、それが人でもOKだということもあるだろう。そして、「この人のは無理だけど、この人のなら大丈夫」とか「生は嫌だけど、微生物処理されてたらいける」などという細かい条件づけもあるはずだ。

 スカトロ趣味なぞというと、世間一般には特殊な変態性欲のたぐいだと考えられているだろうが、実は愛の程度が著しく発展した結果なのではないか? 人が、他者の排せつ物に感じる抵抗感には様々な段階があるが、処理の工夫と愛の量によって、それは必ずしも越えられない一線ではないのかもしれない。

 ただ、その場合「アイドルはうんこしない」ことをかたくなに信じている、熱狂的なアイドルファンの存在はどう解釈したらよいのだろうか、などとガラにもなく深い哲学的な思索にふけってしまったが、実は金肥とは人の糞尿のことではない。

 歴史的な用例としては、刈草や落ち葉、もみ殻などの農村で自給できる肥料原料に対し、干し鰯やニシン粕、綿や菜種の油をとったあとの搾りかす(油粕)や都市住民の糞尿など、金を払って他所から買い入れる購入肥料のことを、金肥と呼ぶ。

 広義には糞尿も含まないわけではないが、現代では金を払って買う肥料(ほとんどの場合は化学肥料)という意味あいで用いられている。

 

 金肥が普及するようになったのは、江戸時代の中期以降らしい。ただし、稲作よりも、綿や菜種などの商品作物に利用されることのほうが多かった。その理由としては、肥料が高価だったから利益率の高いものに優先した、という事があるだろうし、稲はほかの畑作物に比べれば、少肥でもそれなりの収量は得られる作物だった、という事情もある。

 水稲はほかの作物とは異なり、水を張った田んぼという少々特殊な環境で生育する。水田という環境にはいくつかの利点がある。まず、灌漑水に含まれる少量の窒素やミネラルなどを稲が利用できること。また、水中に繁殖する光合成細菌や藻類が空気中の窒素を固定し、多少は稲にまわされること。田んぼの中に住む微生物、それを目当てにくる小動物や水鳥の排せつ物や死骸から、わずかながら田んぼの中に肥料分が放出されること。

 農民たちが血と汗と涙(これらにも多少の肥料効果があったかもしれない)で集めてきた、落ち葉や刈草などに含まれる窒素分は少なく、また田んぼの土の中は酸素が少なく微生物に分解されにくい。よって一年二年入れたくらいでは目に見えるほどの効果は表れないが、分解されにくいために逆に何年にも渡って少しずつ肥料が効いてくるので、頑張って入れ続けていればやがて効果は表れる。

 ある実験では、堆肥以外の肥料分を入れずに米を作っても、通常の量を入れた場合の七割程度の収量は得られる、という結果になったそうだ。有機質肥料も含めて窒素肥料を極力使わない「自然栽培」という栽培法を実践する農家さんの話でも、だいたいそれくらいの収量は得られているという。

 とはいえ、金肥を使えば効果が出ることも確かである。上の実験の結果を逆に言えば「肥料を入れた場合、入れない時より四割増収」という事になる。収量が抑えられたと言って喜ぶ農民はいない。収量が第一の時代には、あえて使わなかったというよりも、費用対効果の面から使いたくても使えなかった、という方が正しい。この辺の事情を調べると、結構長い話になるのだが・・・・・・

 

 良く知られている通り、江戸時代には米が経済の中で大きな役割を担っていた。徳川幕府、および各国の大名たちは、農民から徴収した年貢を、大阪などの米市場で売って得たお金を用いて、国家運営を行っていた。国の経済力は米の生産量(石高)で表され、武士の俸給も(実態はともかく建前としては)米で支払われることになっていた。

 各地の為政者たちが、「歳入を増やすためには、米をたくさん作るのが一番だ! 」と考えるのは自然な発想だろう。実際、当時もっとも手っ取り早く米の生産量を増やす手段は、田んぼの面積を増やすことだったから、江戸開府後の約百年間で、全国の耕地面積は約二倍に増えた。

 開墾、開拓によって農村の人口は勿論増えたが、食料生産量の向上により余剰食糧が多く生まれたことで以前よりも、食料生産に直接従事しない人間をたくさん養えるようになった。各地の大名、それに仕える武士が住む城下町。大きく発展しようとしていた商工業に従事する人たち。そしてなにより大きかったのは、天下人徳川家康が作り始めた巨大消費都市江戸である。

 都市の建設に関わる人足や、参勤交代で江戸詰めになる各藩藩士、大奥の女性たち、職人や商売人、遊郭の女郎たちなど、いわゆる二次・三次産業に属する食料の消費者が大量発生し、人口百万人という当時世界最大の都市が成立した。

 全国的に見ても、江戸時代初期にはおよそ一千万人程度だった人口は、百年後にはおよそ三千万人程度まで増加している。彼らの需要にこたえるために多くの米が必要とされたので、米の増産はある程度各藩の国家財政を豊かにする効果はあった。しかし、米の増産はじわりじわりと幕府及び各藩の首を絞めていく原因となる。

 

 江戸時代、徳川幕府は、各藩に対して「天下普請」と「参勤交代」を押し付けて国力を削ぎ、軍事的経済的な優位を保つことで覇権を維持した。それに加えて、各地の金山銀山を支配下に治め、長崎出島での貿易を独占することで、大きな利益を得ていたものの、収益の基盤はやはり公称四百万石という広大な天領から上がってくる年貢米に頼っていた。

 開府後約百年の時点で、耕地面積は大きく増え、年貢収入も増大していたが、実際のところ幕府の財政は悪化していた。これは、支配下に置く金銀鉱山の枯渇というのも大きな原因の一つだったが、税収の多くを年貢に頼る体制だったことによる、構造的な問題があった。

 江戸時代は米本位制度、などと言われることもあるが、実体として米は基軸通貨ではなく、金銀銭の三貨によって経済は動いていた。江戸時代初期の経済発展によってインフレーションが起こったが、米の価格自体は、増産によって供給量が増えているため、インフレ率と同等に上昇することはなかった。そうすると、米のカネに対する価値は相対的に低下してしまうことになる。

 米の価格自体は幕府の統制によって、おおむね維持されていた(されていないこともあった)が、米価が下がらない、というだけではインフレ状況下ではジリ貧である。しかし、実際の価値を無視して米価を引き上げるとすべての物価が高騰し、かえって経済が混乱する結果になる。こういうわけで、財政の基盤を米に頼っていた幕府や諸藩は、米本位では財政が立ち行かなくなって、カネを扱う大商人たちに対して大きな借金を抱えてしまうことになった。

 ただし、米価の相対的な低下は為政者にとってはともかく、(農民以外の)庶民にとってはむしろ歓迎すべきことだった。特に、酒造りに関わることで言うと、米が手に入りやすくなったために、日本酒造りが産業として発展し、伊丹や灘などの大酒造地が形成された。

 それまでは貴族や武家、僧侶などの特権階級しか口にすることが出来なかった清酒が、現代の酒の価格に比べると遥かに高級だったとはいえ、庶民の手に届くようになったのである。

 酒造技術書の古典「童蒙酒造記」も、だいたい元禄(西暦1688~1704年)頃に成立したとされている。技術的にも社会一般に広まったという意味でも、僕たちが今知る日本酒というものが生まれたのは、この頃だったと言って良いだろう。

 

 話を戻して、幕府の財政が火の車で、にっちもさっちもいかなくなりかけていた時に、さっそうと現れたのが「米公方」とか「暴れん坊将軍」だとか巷で大人気の、八代将軍徳川吉宗である。

 徳田新之助時代の行状はさておき、吉宗が行った一連の改革(西暦1717~享保の改革)は、経済の面でざっくりいうと、

 ・新田開発

 ・農民への課税増

 ・幕府の緊縮財政策

 といった改革が挙げられる。要するに、支出を減らして税収を増やす、という策であるが、税収増=年貢増という事だから、結局はインフレによる米価の相対的な低下に対する根本治療にはなりえなかった。改革の影響で引き起こされた不況も相まって(不況によって経済成長が鈍化すると、米価の相対的な低下も遅くなる)、短期的には幕府の財政規律を改善する効果はあったものの、長期的に見ればその場しのぎの策にすぎなかった。

 しかしながら、徳川吉宗は神格化されたカリスマであった。経済面での失策はともかく、それ以外の政策(公事方御定書とか目安箱みたいな)は効果を上げ、幕府中興の祖として称えられることになる。

 独裁者は失敗をしない。というか、一人の人間の知力、判断力には限界があるはずなので、独裁体制があきらかに民主主義に勝るとしたら、それは独裁者が全知全能である場合を除いてあり得ない。だから、独裁を成り立たせるためには、独裁者は全知全能であり、独裁者がやることなすこと全てが正しい、という事にしておかないとそもそも独裁国家が存在することは許されないのだ。

 現代の北朝鮮と同じく、江戸幕府も将軍家を頂点にする独裁体制だったから、「中興の祖」とまで称えられる偉大な将軍様の打ち出した方針を、後に改めるのは困難だったのだろう。享保の改革の効果は一時的なもので、年貢頼りの財政という徳川幕府の持っていた構造的な弱点は修繕されることがなかったが、その後幕府が行った「寛政の改革」や「天保の改革」などの改革でも、おおむね吉宗の「苦しくなったら年貢増と緊縮財政によって乗り切る」という方針から外れることはなかった。

 

 技術面で、江戸時代の農業政策の問題点を指摘するならば、新田開発をし過ぎた、という事に尽きると思う。

 江戸時代初期の、全国に耕作可能な空き地がまだたくさん残っている状態ならば、新田開発をすることによって米の収穫量を増やすことも比較的容易だった。しかし、開府から百年ほど経った時には、既に耕作可能な空き地がほとんど残されておらず、あったとしても、稲の栽培が困難な寒冷地や、山間の狭い面積であったり、度々水害に襲われるような低地、土質が不良であったりするような、悪条件の土地ばかりだった。

 また、江戸時代の農業では、刈敷(里山の雑草を刈り取ってきて生のまま肥料として使う)、堆肥(もみ殻や落ち葉などの植物質原料を堆積し発酵させた肥料)、厩肥(牛馬や人などの糞尿)が主要な肥料として用いられていたが、新田開発によって耕作面積が増えると、単位面積あたりに投入できる肥料が減るわけなので、当然収量も減少することになる。新田開発によって山間の土地まで利用されるようになると、刈敷の素材が手に入らないためにますます肥料資源の入手が困難になった。

 刈敷、堆肥、厩肥の入手が困難になると、他のところから肥料を入手する必要が出てくる。たとえば、江戸や大阪などの大都市近辺では都市住民の糞尿、海沿いでは鰯の搾りかす、菜種の産地では油粕などの肥料原料が手に入った。これらは金を払って購入する肥料という意味で、「金肥」と呼ばれたが、先に述べた通りの理由で、主に畑作の商品作物を栽培する際に用いられた。

 米の価格の相対的な低下は、為政者にとっても難題だったが、農民たちにとってはより深刻な問題となっていた。農民たちは、年貢として供出した残りの米の、一部を自宅用として残しておいて、他は現金を得るために販売するのが普通だった。「江戸時代の町民は白い飯ばかりを食っていたが、農民たちはめったに米を食えなかった」と言われるのはこういう理由があるからだが、米の価格が低迷すると農民たちが米を売って得られる現金も減ってしまうため、米よりも畑作の商品作物を作るために努力しなくてはならなかったのである。

 

 江戸時代はリサイクルが発達した、クリーンな時代だと言われることがある。産業革命以降に比べたら、その言葉にもある意味正しい面もあったかもしれないが、江戸時代はそれまでの時代に比べると環境破壊が進んだ時代である。

 新田開発による森林破壊によって住処を奪われた動物たちが、人里に侵入してくることが増えたために、獣害が大きくなった。その上、木の伐採などによって山の保水力が低下し、山津波と呼ばれる土砂崩れが度々発生するようになった。さらに、流失した土砂が河川に流れ込むことによって川床が上昇し、氾濫も起こりやすくなる。新田開発によって、氾濫の危険性が高い土地にも作付けが行われるようになっていたので、いざ氾濫が起こった時には多大な被害が生じるようになっていた。幕府が各藩に押し付けた天下普請によって、治水事業は度々行われていたものの、当時の技術では恒久的な河川改修は不可能だった。

 江戸時代に積極的に進められた新田開発によって、耕地面積は増え、米の生産量も増えたが、少なからぬ人災も加わって、農業生産は天候不順や水害などの危機に対して脆弱になっていた。好天に恵まれると、米がとれすぎて米価が暴落するし、不作の年には飢饉が起こることすらありうる、という非常に不安定な状況である。

 しかし、為政者による新田開発熱は止むことがなく、農民たちは無謀な戦いを強いられてたのである。

 

 江戸から明治に入ると、しだいに金肥が広く使われるようになる。特に明治二十年代に入ると、北海道の開拓によりニシン粕の生産量が増えたり、日清戦争後に大量に輸入されるようになった満州産大豆の搾りかすが利用できるようになったりと、利用可能な有機質肥料の総量が増えた。また日本に化学肥料が紹介されたのも、このころだった。化学肥料が大量生産され、一般に普及するまでには少し時間がかかったが、その後の普及スピードは驚くほど速かった。

 これまでより容易に金肥が手に入るようになると、商品作物だけではなく当然稲作にも金肥が用いられるようになったが、ここで問題が起こった。肥料が少なくても収量が上がるように育種されていた穂重型の品種は、逆に多肥条件には弱かったのである。

 そこで、在来種の中でも比較的多肥条件に強い品種が求められるようになった。少量の窒素で効率よく体を作る品種から、窒素はたくさん必要だがより光合成能力の高い体を作る品種へ。つまりは少数の長い茎に多くの種子をつける穂重型品種から、多数の短い茎にそれなりの数の種子をつける穂数型品種へ、と。「耐肥性」。つまり多すぎる肥料に耐える能力が稲に求められるようになったこと自体、史上初めてだったのではないだろうか。

 明治中期以降に、特に広く普及したものは「明治の三大品種」と呼ばれ、復古品種として酒造用に使われたりしているので、ご存知の方も多いかと思う。「神力」「愛国」「亀の尾」の三種である。「神力」は当時としては極端な穂数型の品種。「愛国」は短稈で耐肥性が強かった。「亀の尾」は、前者二種とは微妙に性格が異なる。確かに従来の在来種に比較すると耐肥性は強かったが、それよりも耐冷性と早生(現代の基準では中生だが)という特性によって、東北地方に広く普及した品種であるので、これについては後にまた書こう。

 金肥の時代になると、穂重型よりも穂数型のほうが収量の点では有利になってきた。そして、それらの多収品種は「雄町」等よりも粒の小さい品種がほとんどだった。

 収量の多い米は味が悪くなる、と言われる。この時代の多収品種のほとんどもその例にもれず不味かったらしく、一般流通する際には複数の米をブレンドして販売するのが普通だった(特に関西地方では、昔からブレンドの文化があった)。その際に、明らかに粒の大きさの異なる大粒品種はうまく混ざらないし、吸水率が違ったりするのでブレンドしにくい、という事になって主食用としては敬遠されるようになったという。

 このような経緯で、金肥の登場と穂数型品種の普及以降、穂重型の大粒品種はほとんど酒米専用としてのみ栽培されるようになった。

 

 農務省の農事試験場が設立されたのは、金肥の普及によって稲に求められる性質が変わり始めた、ちょうど転換期にあたる明治26年である。この時期を境に育種の主体が農民から国へと移り変わったのは、やはり必然の出来事だったのだろうか。(山形県庄内地方では例外的に太平洋戦争後に至るまで、民間育種家の活躍が続いていたが)

 設立された農事試験場がまず行ったのは、各地の在来種を収集し、試験栽培を行ってその性質を明らかにすることであった。試験栽培によって優れた成績を見せた品種は、奨励品種として広められた。

 ただし、明治期に各地で栽培されていた品種はまだ、現代の基準からすると様々な遺伝子型を持つ種が入り混じった、「品種」というより「品種群」といったほうが良いような状態だったようだ。同じ「雄町」という名で栽培されている品種であっても、栽培されている地域や農家、さらには同じ田の中でもわずかながらに性質の異なる種が入り混じっていたことだろう。