孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話①

           

 

 鍵をなくした酔っ払いのジョーク。

 ある寒い日、暗い夜道を歩いていると、街灯の下で腹ばいになって何かを探している男を見かける。どうやら男はひどく酔っぱらっているようだ。

 何を探しているのか、と尋ねると、酔っ払いは、家の鍵をなくしたので探しているのだ、と答える。

 とても寒い夜である。家の中に入れなければこの酔っぱらいは凍えてしまうかもしれない。

 気の毒に思ったので手を貸してやろうと、酔っ払いに尋ねる。

 「鍵をなくしたのは確かにこの辺りなんだね? 」

 酔っ払いは悲しげに首を振り、ろれつの回らない舌で言う。

 「いや、そういうわけじゃないんだが、何しろこの暗い夜道、足元が見えるのは街灯の下ぐらいのもんだからね」

 

 腹を抱えて笑うようなものではないが、何となく示唆に富んでいるような気がして、個人的になんか好きな話だ。

 この話を読むと思い出すことが二つある。

 一つ目は、僕が酒蔵に入って一造り目の甑倒しの日、正体を失うまで酒を飲んだので、鍵束と携帯を飲み屋に忘れてしまい、次の日の仕事にはヒッチハイクで向かったこと(家には鍵の開いてた裏窓から入った)。だがこの話はどうでもいい。

 二つ目は稲の育種の話だ。こういう言い方をすると稲の育種家の人には失礼かもしれないが、稲の育種と酔っ払いの鍵探しは、すこし似たところがあるように思う。

 世の中には多種多様な稲の品種がある。それらの中で例えば、「酒造りに向いている米」を選び出したいと思ったとする。米の姿はたいてい似ているので、玄米をじっと眺めたくらいでは、その適否などわからない。ちょっとくらいはわかったってよさそうなものだけど、普通に無理だ。嘘だと思うなら「酒米ハンドブック」という本を買って試してみてください。少なくとも僕には無理でした。

 適した米を選ぶための一番確実な方法は、実際にその米で酒を造って見るという事だろう。しかし、このやり方にはいくつかの欠点がある。まずすべての品種を総当たりで試すには気が遠くなるほどの時間と手間がかかるし、造ってしまった酒はだれが責任をもって飲むというのか。

 だから育種家は「酒造りに向いている米」を探す際には、まずそれが見つかりそうな場所を選んでから探し始めることになる。経験上、「千粒重が大きい米」は酒造に適している可能性が高いから優先して、それから「心白発現率」とか「軟質米」・・・・・・などといったように。これらの項目を調べれば、無数にある稲の品種の中から、比較的簡単に酒造に適した品種を選び出すことができる。数が絞られたところで、実際に醸造試験を行えば、その品種が本当に酒造に適した品種であるかどうかを確かめられる。

 ただし、どのような選出方法を用いれば、望ましい特性をもつ品種を発見できるのか、という事があらかじめ分かっていなければ、たとえ調査する稲の集団の中に目当ての品種があったとしても、見つけられない。逆になにか見つかったとしても、選出方法が適切なものでなければ、本当に望んでいたのとは異なるものしか見つからない、という場合もありえる。また、経験から導き出された選出基準から外れるが、実は育種家が望む特性を持っている品種(たとえば千粒重の小さいけど実は酒造にはすごく適した米とか)は、発見されないまま残されてしまう、という可能性もある。

 暗い夜道、街灯の光(恣意的な選出基準)の届く範囲内で、目的のものを見つけなければいけないという状況は、鍵をなくした酔っ払いと似ている。育種家の場合、おそらく目当てのものが見つかるのではないか、という目ぼしい街灯を自らの判断で選んで探すことはできる(酔っぱらった状態で仕事している育種家なら話は別だが)。そして街灯の下を探せば何らかの品種が見つかることは確かである。でも、それが本当に探していた物なのか、見つけ出してよかったのかどうかは、結局のところ他者である農家、そして醸造家や消費者の判断にゆだねられることになる。

 その点で、鍵が見つかれば万事解決の酔っ払いと、どっちがマシなのかはわからない。

 

 明治以前の、民間の篤農家によって行われていた稲の品種改良(選抜)は、ほとんど一貫して「収量の増加」と「栽培面積の拡大」を目的としていた。というより、「栽培面積の拡大」も稲の生育に適さない高緯度地域や寒冷地での作付けを増やして、全体の収量を増やすことが狙いだったわけだから、結局のところ「収量の増加」が唯一の目的だったと言い切ってよいのかもしれない。

 米の収量は、言葉を換えると「稲が生育期間中に生み出した光合成産物の中の、種子の胚乳部分に回されたデンプンの量の多寡」だと、言うことができる。「この品種は収量が多い、少ない」などというが、葉で行われる光合成のシステム自体はすべての品種で共通しているものなのであまり差はない。重要なのはどのようにして葉の面積を増やし、無駄遣いを省いて種子に蓄積する光合成産物の量を増やすかである。

 単位面積当たりの米の収量を増やすためには、

 ・葉の面積を増やし光合成が可能な部分を増やす。

 ・生育期間を長くとって、長時間光合成産物を貯める。

 ・体づくりのために必要な炭水化物量を削って、その分を種子にまわす。

 などといった戦略が考えられる。

 ただし、葉の面積を増やそうとすると、その分葉を作るために必要な肥料と光合成産物の量が多くなるし、大きくしすぎて隣の株の葉と競合するようなことになれば、高いコストを払っただけで、光合成量が大きくならない、というようなことにもなりかねない。葉が密集して風通しが悪くなると病気も出やすくなるので、際限なく葉の数を多く、大きくすることは得策ではない。

 生育期間を長くとるという戦略も、四季の有る日本では限界がある。一般に、稲が稔るためには、登熟期間中の積算温度が千度程度は必要だとされており、出穂が遅くなりすぎると種子が実らず冷害の危険性ばかりが増してしまう。

 体づくりのために必要な炭水化物量を減らすと、葉の面積が減ってそもそもの光合成量も減少するという本末転倒が起こりかねないし、細胞壁が薄い稲は病虫害や風害、倒伏に弱くなる。

 いずれの戦略にも長所短所があるものだから、「ほどよい稲」を作ることが、収量を増加するためには大切なこととなる。しかし、「ほどよい稲」とはいったいどのようなものだろう?

 もちろんそれは、『これ!』 というような、たったひとつの理想形ではありえない。各地の気象条件によって異なるし、土壌、環境、栽培方法によっても変わる。というより、ある特定の気象条件や栽培方法で「ほどよい稲」になって高い収量を得られるように、遺伝的な性質を持つ集団をそれぞれ選び出したものが「品種」となる。

 

 栽培稲の姿は大きく分けると、「穂重型」と「穂数型」という二つの形に分類されている。それぞれを分別する定義などもあるのだが、細かいことを言ってもあまり意味はないと思うので、ざっくり説明すると。

 「穂重型」は、分げつが少ないので一株当たりの穂数は少なくなるが、一穂あたりに着く種子の量が多い稲の形である。穂が長くなる分それを支える茎も太く長くなり、分げつが少ない分葉一本当たりの面積も増え大きく展開する。グッと開いた姿勢で、見た感じ豪快なものが多い。

 「穂数型」は一穂あたりの種子は少ないが、分げつが多い形の稲だ。一般に茎が短く、葉が直立して株が小さくまとまるので、密植に向く。現在栽培されている稲のほとんどは、「穂数型」に分類される。

 というのは、現代の条件では普通は「穂数型」のほうが収量を得やすいからだ。

 単位面積当たりの収量は、下の式で計算できる。

 ( 収量=穂数×一穂あたりの種子の数×登熟率(%)×千粒重÷1000 )

 「穂重型」は一穂あたりの種子の数と、(多くの場合)千粒重では優れているが、株が大きくなるので密植に向かず、そのため穂数は少なくなる。穂数が少ないという事は、茎を作るために必要な光合成産物や肥料(主に窒素)の量も少なくて済むということなので、あまり肥料をやらなくても収量を得られるというメリットはある。反面、肥料に敏感な性質を持ち、窒素を多くやりすぎると茎が長くなって倒伏の危険性が高くなる。倒伏すると登熟率がガクッと落ちるので収量を得にくくなる。

 「穂数型」の場合、密植に向く草型をしている(そのように育種されている)。葉が直立しているので密植していても根元まで光が行き届き、光の奪い合いが起こりにくい。穂数を増やすためには穂重型よりも多量の肥料を必要とするが、元々茎が短いものが多いので、多少肥料を多くやっても倒伏しにくい。そのため肥料を適切に使って、稲の生育をうまくコントロールすれば「穂重型」よりも収量を得やすい。

 

 先にも書いたような気がするが、江戸時代末期から明治時代中ごろまでにかけて、近畿地方を中心に大粒穂重型の中晩生種が流行した。「伊勢錦」「雄町」「山田穂」「都」「強力」など、現在酒造好適米として用いられている品種や、品種の親が登場し、各地で栽培されていた。

 現在ではこれらの品種は、ほとんど酒米専用として使われているが、育種された際には別にそのような意図はなかったはずである。当時としてはマシな多収品種であったことからこそ栽培が広まり、ほとんどの場合食用として利用されていた。

 このころの品種に対してはよく「収量が低い」とか「収穫時期が遅くて栽培できる地域が限られる」、「茎が長いから倒伏に弱い」などという悪評が付きまとう。ただこれらの欠点は、現代の環境や栽培技術を知っているからこそ見えてしまうものであり、選抜当時には欠点というよりむしろ優れた点だった、とは考えられないだろうか。

 「雄町」等が選抜された頃、農民たちが使える肥料というのは、せいぜい山からかき集めてきた落ち葉や刈草、わずかばかりの家畜ふんや人糞くらいのものだった。田んぼにレンゲを生やして緑肥にしたり、イワシや菜種油の搾りかすを肥料にしているような例もあっただろうが、前者は温暖な地域の乾田でしか行えないし、後者はとにかく肥料に金がかかるというので、ほとんどの農家は肥料など、入れたくても入れられないような状況だった

 雷のことを「稲妻」と呼んだりする。大気中の窒素は安定した物質のため、そのままの形では植物には利用することはできないが、雷が発生する際の電気エネルギーによって、空気中の窒素が固定され、植物が利用できる形になる。それが雨に溶けて田んぼに降り注ぐと、窒素分が補給されて稲の生育が良くなることから、雷は「稲の妻」という意味らしい。「雷が多い年は豊作になる」という言葉もある。使いたければいくらでも肥料を使える現代では、雷による窒素固定量などタカが知れているが、肥料を使えない時代の農民たちにとっては、そのわずかな窒素量でさえ収穫量を左右する要素だったに違いない。

 稲の生育に最も影響が多い肥料が、窒素である。大雑把に言うと稲は、光合成によって得られた炭水化物と、根で吸収した窒素から合成したたんぱく質を使って、体を作り上げる。熱心な農家や醸造家、それに一部の意識高い消費者などからは何かと悪者にされることの多い窒素だが、稲の生育には絶対不可欠な成分である。光合成によって得られた炭水化物があっても、窒素が不十分だとそれ以上体づくりを行うことができないので、葉を増やしたり大きくすることができない。なので、光合成の絶対量も小さくなる。

 明治中期ごろまでの、自由に窒素肥料が得られなかった時代には、稲に与えられる窒素の量が、稲の収量を左右する制限因子になっていた。そのため農民たちは窒素質をかき集めるのに躍起になっただけではなく、少量の窒素でできる限り多くの収量を得られる品種を求めていた。

 それから、千粒重が大きい、という事は軽視されがちな気がするけど、現場の農民にとってはわりと重要な要素だったと思う。粒が大きい米は小さい米よりも、同じ容積の枡を使った場合に、重量が若干少なくなる(コップの中に、大きな角氷がゴロゴロ入っている所と、小さなクラッシュアイスがみっちり入っている所をイメージしてみてほしい)。米の量は戦前まで、重量ではなく体積の単位で計られて流通していたので、大粒の米の場合はその分だけ実質的に収量が増えたのと同じことになる。一俵二俵くらいで比較した場合には大した差ではないが、百とか二百ともなれば、無視できない数字になるだろう。

 さらに、米に注目していると見落とされがちな事だと思うが、稲わらというのは当時わらじやむしろなどの工作原料、牛馬の飼料や敷き藁、その他多くの用途に用いられていた貴重な資源であって、むしろ長く丈夫な稲わらは農家にとって望まれていたものだったはずだ。

 江戸時代~明治期にかけて現れた「千粒重が大きい」「長稈・大穂・穂重型」で「冷害に遭わないギリギリの晩生」「米に含まれるたんぱく質(窒素)が少ない」といった特性をもつ一群の品種は、まさにこの時代の農民たちのニーズにぴったり合致していたのだと思う。だからこそ流行したのだ。

 「雄町」等は、窒素肥料を十分に使えなかった時代の最終盤に現れた、品種改良の歴史上、少肥料環境に最も適応していた品種だった。そして少量の窒素肥料を使って、できる限り効率よく種子にデンプンを貯めこむ能力と性質が、たまたま日本酒を製造するのに適した性質と重なった。

 明治中期以降、金肥が比較的容易に手に入るようになって以降は、収量重視の育種がなされ、短稈穂数型の多収品種が全国に普及することになる。しかし、それ以前の品種の特性である、穂重型で茎が長いことは、収量を増やしていくためには不利な性質だったが、一定以上の窒素肥料をやれないことは逆に、米のタンパク量を制限し酒米としての品質を維持することにつながった。結果として、おそらく当時の育種家には思いもよらないことだっただろうが、これらの品種が現代の酒造好適米の祖になったのではないだろうか。