孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話④

           

 

 ここまでは主に暖地で栽培された西の横綱「雄町」を例にとった話が続いたので、すこし気分を変えて、寒冷地で名をはせた良質良食味の耐冷性モンスター、東の横綱「亀の尾」にも触れておきたい。

 稲の栽培が始まったのは、中国の長江中流下流当たりの温暖な地帯である。栽培稲は温暖な気候に慣れた植物だった。そのため日本に最初に渡来した北九州から、本州中部地方あたりまでの温暖な地域では、スムーズに栽培は広まった(推定では五十年程度)が、それより北の地域に稲作が広まるまでは少し時間がかかった。

 稲作の北進がスムーズに進行した地域と足踏みした地域の境界線は、年間の最高気温三十度以上の日が四十日以上あるか否かを分ける線と、奇妙なほどに一致しているという。

 稲作をそれ以上寒い地域で行うためには、温暖な地域に適応していた稲が、新たな性質を獲得することが不可欠だった。

 それは「感温性」と「耐冷性」である。

 例えば温暖な地域で栽培される「雄町」は、東北地方では栽培ができないとされている。なぜかというと、雄町のような晩生種の場合出穂時期が遅いので、穂が出てから十分に種子が成熟する前に気温が下がってしまうため、登熟期間が短すぎてまともな米が作れないのだ。

 では、早植えすることで出穂時期を前倒しにできないだろうか、などと考える人は当然いるだろうが、稲の持つ感光性の問題からそれはなかなか難しい。

 稲の生涯は大まかにいうと、栄養成長期と生殖成長期に二分される。栄養成長期とは、吸い上げた肥料や光合成産物を自分の体を大きくするために集中して使う時期のこと。そして生殖成長期は、肥料や光合成産物を、自分の子孫を作るために集中して使う時期のことだ。

 四季のある日本では、稲は成体のままだと冬を越せないので、寒くなる前に種子を作って種子の状態で越冬をしようとする習性がある(種子は成体よりもはるかに寒さ、乾燥、冠水に強い。なので日本の一年生植物は冬の前や夏の前など、厳しい環境に直面する前に種子を作る性質がある。逆に四季のない熱帯では種子を作らずに分げつで増える野生稲も存在する)。

 越冬した稲の種子は、周囲の水温がほどよくになると発芽し、発芽後しばらくの間は栄養成長期でとにかく自分の体を大きくすることを優先する。そして、「そろそろ穂を出す準備をしとかな冬までに間に合わへんな」と判断すると、体を大きくしながらも子孫へ残すためにも養分や光合成産物を回すようになる(幼穂形成期~出穂期)。出穂してからは、体の成長に養分や光合成産物をまわすことはやめ、もっぱら種子に全精力を注ぎこむようになる。

 元々日本に入ってきた稲は、出穂時期の判断を日長(正確には夜の長さ)を基準にして行っていた。北半球では六月二十一日ごろの夏至を境に日の長さが短くなってくるが、ある一定の日長になると稲はそれを感知して「そろそろやな」と穂を出す準備を開始するのである。

 しかし、日長を基準に出穂時期を決めるとした場合、厄介な問題に出くわす。地軸は太陽に対して傾いているので、緯度が高い地域ほど、季節によって日長の長さが大きく変化する(極端な例だが、北極圏のような高緯度地帯では一日中太陽が沈まない白夜という現象さえ起こる)。

 例えば北緯四十三度の札幌では、夏至の日の日長は十五時間二十三分程度だが、北緯三十五・五度の松江では、同日の日長は十四時間三十三分で、一時間ほど短くなってくる。

 感光性の強い品種を北海道と島根で同じ日に播種したとすると、島根では「日も短こうなってきとるし、そろそろ穂を出さなあかんやろ」と稲が判断しても、同日の北海道では「まだ日は長いし、もうちょい待っとこか」と判断する事になる。日長を基準に判断する品種の場合、緯度の高い地域ほど出穂時期が遅れる。北へ行くほど寒くなるのが早いのに、出穂まで遅れてしまっては致命的である。

 稲作の栽培は、東(同緯度地域)への展開は早かったのに、北(高緯度地域)への展開が遅れたのは、稲のもつ感光性に制約されていた部分が大きい。

 

  稲の感光性を小さくすることができなければ、稲作の北進は不可能だ。中部地方のあたりで、一時期稲作の北進が足踏みしていたのは、適した性質を持つ種が存在していなかったからだろう。

 この辺は非常に興味深い話ではあるが、現状具体的な証拠がまだ見つかってないため、おそらくこうだったのではないか、という推論がいくつか提起されているのみである。たぶん突然変異か自然交配によって、感光性にあまり頼らない「感温性」の種が誕生したことで、稲作は北へとさらに拡大できるようになったのだろう。

 日長によって出穂時期を決定する感光性の品種に対して、感温性の品種は気温によって出穂時期を決定する。積算温度といって、日の最高気温を積算していき、一定以上の数字になると稲が「そろそろやな」と判断して生育を転換し、出穂を行う準備を始める。(少しややこしい話になるが、感光性を全くなくしてしまった一部の品種を除き、感温性とか感光性とか言うのは程度の問題である。出穂の判断に感光性の影響が大きい品種を「感光性」と言い、比較的小さい品種を「感温性」というが、あまり厳密なことを言っても意味はないと思うので、「だいたいそんな感じなんだな」ぐらいに考えておいてほしい。ちなみに山田錦は感光性の強い品種で、雄町はそれに輪をかけて強い)

 日長時間に影響されにくいとなると、早植えすることによって積算気温を稼ぎ、出穂を早めて東北の早い冬が訪れる前に登熟を終えるような、栽培方法が可能になってくる。

 ただし、出穂時期が早いという事は、栄養成長に使える期間が短くなるという事である。体を大きくすることで、光合成が可能な葉の面積を増やし、光合成産物を多く稼ぐことは難しくなるので、肥料が満足に使えなかった時代には、どうしても晩生の品種よりも収量は劣った。そのため、東北の農民たちは登熟可能なギリギリを狙って、出穂時期の遅い晩生品種をしばしば栽培したが、それらは冷害の影響を受けやすく、壊滅的な被害を受ける可能性が高かった。

 飢饉というと、特に東北地方で悲惨な状況になっていたようなイメージだが、気象的に冷害が起こりやすいという事に加えて、起きた場合に被害が拡大しやすい作付けが行われていたことも、その要因の一つだったのではないだろうか。

 江戸時代の東北地方のある国では、冷害の危険性の高い晩生品種(ノゲがないので「坊主」と呼ばれた)の栽培を禁止したが、それでもこっそり隠れて栽培するものは後を絶たず「コッソリ坊主」と名付けられて栽培されていた品種さえあったようだ。

 

 稲が北進するうえで「感温性」とともに重要だったのは「耐冷性」だ。

 稲の耐冷性という言葉には様々な意味がある(広い意味では登熟期を前倒しにする「感温性」の獲得もその一つだったと言えるかもしれない)。

 稲の種子が低い水温でも発芽する「低温発芽性」。発芽した種子が、低い水温でもよく成長する「低温伸張性」。それから、「冷害に対する抵抗性」である。狭義に「耐冷性」というと「冷害に対する抵抗性」を指すことが多い。

 冷害には、栄養成長期の低日照や低温の影響で稲の生育が遅れる事によって生じる「遅延型」と、生殖成長期に低温が当たることで稲の花粉が正常に作れず受精率の落ちる「障害型」が存在する。そして、これら二つが組み合わさった最悪の「ミックス型」も。

 東北地方では田植えを早めて栄養成長期間を長くとるために、「低温発芽性」や「低温伸張性」は重要だった。

 そして、古くから飢饉の主な原因となっていた、冷害に対する抵抗性は言うまでもない。おそらく、耐冷性を持つ種の多くは、実際に冷害にあって壊滅した田んぼの中で、辛うじて生き残っていた少数の変わり穂から見出されたものだろう。歴史を紐解いて、冷害のために起こった悲惨な飢饉の話などを読むと、この僕でさえ心が痛む。そんな大きな苦難を人間と共に乗り越えて、そして今でも人間に食べられ続けている耐冷性が強い稲のことを思うと、古くからある品種に対してはもっと慈しみをもって接するべきだよな、とか個人的には感じます。栽培し続ける必要があるかは別として。

 

 稲の耐冷性について語るうえで、というか主食用米や酒米も含めて、現代の稲を語るうえで絶対に外せない品種が「亀の尾」である。

 亀の尾は、耐冷性の強い品種を求めた阿部亀治によって育成された。

 亀治の父が知人と話している時に、

「昔は『惣兵衛早生』という品種は、冷たい山水がかかる田んぼでもよく生育するので『冷立稲』などと呼ばれた良い品種だったのに、種がボケて最近では倒れたり節が折れたりして散々な稲になってしまった。今年もどうやら出来は良くないようだ」

 という話題が出た。その話を脇で聞いていた亀治は「冷水のかかる水口でもよく育った」という部分に興味を持ち、実際に「惣兵衛早生」を栽培している地区を訪ねた。

 話の通り、その地区の田んぼの出来は良くなく、多くの稲は倒れていた。しかし、ある田の中で三本だけ黄色く登熟している穂を見つけたので、ちょうどその近くで働いていた田の持ち主に交渉して、その三本の穂をもらって帰った。明治二十六年九月二十九日のことである。

 あくる年に、三本の穂から得たモミを栽培してみたが、伸びすぎて倒伏してしまい良い結果は得られなかった。その次の年も同じような結果に終わった。

 明治二十九年には、この稲の持つ耐冷性を生かそうと思い立ち、実際冷水のあたる水口で栽培してみたところ、よさそうな穂が一本見つかったので、それを元に選抜を重ね「亀の尾」という品種を育成した。

 「亀の尾」は食味が良く、醸造適性も高いという事で評判が良かった。良食味性は「コシヒカリ」や「ササニシキ」などに引き継がれ、醸造適性は「美山錦」「改良信交」「五百万石」などへ伝わり、東北・北陸地方酒造好適米の祖にもなった。

 

 亀治が亀の尾を発見したのは、ちょうど「乾田馬耕」という技術が広められているさなかだった。「乾田馬耕」とは、田の排水性を良くし(乾田化)、馬犂を用いて深耕(馬耕)する技術である。

 明治時代初期までの田んぼは、一年中水を湛えた湿田がほとんどだったらしい。人力によって田んぼを耕うんする際には、土が水を含んで柔らかくなっていなければ大変だったからだという。ただ湿田のように、田に常に水がある状態だと、有機物の分解が起こりにくいという問題点がある。有機物の分解にかかわる微生物の多くは好気性だからだ。農民たちが集めてきて田に投入した落ち葉や刈草などは、長い年月の間分解されることはなく、苦労して入れたわずかばかりの窒素分も、有効化して稲に利用されるより田に蓄積される量が多かった。

 田の排水性を良くし、畜力を借りて深く耕す事で、田んぼの土に酸素がいきわたるようになる。そうすると、今まで蓄積されていた窒素分が好気性の微生物によって分解され、稲が利用できる形になって放出されるようになる(乾土効果)。

 このことに加え、東北地方でも金肥の利用が広まり始めていたので、省エネ型の在来種に変わって耐肥性の強い品種の必要性が増していた。亀の尾はそれまでの在来種よりも耐肥性が強く収量も多かった上に、耐冷性も強くおまけに味までよいという品種だったので、東北地方で一世を風靡した。

 亀の尾は早生(当時としては。現代の品種の中では中生)の割に収量がとれる、というのも画期的だった。早生品種は栄養成長の期間が短くなるので、その点で晩生品種に比べると不利である。ただし、金肥や乾田馬耕で有効化した窒素によって、短い栄養成長期間でも体づくりを行えるようになると、早生品種でも十分な収量を得られるようになってくる。

 出穂期が早くなることで冷害へのリスクも減ること、さらに元々持っていた耐冷性も加わって、亀の尾は寒冷地であっても比較的安定した収量を上げうる、まさに東北の農民たちが待ち望んでいた品種であった。