孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話⑥

         

 

 明治以降酒造好適米がどのように開発されたのか、という経緯を書いていく前に、そもそも「酒造好適米」という概念が生まれる以前の、江戸から明治にかけての期間、酒蔵ではどのような米を酒造用に用いていたのか、という事を(多分に想像を交えながら)記しておきたい。

 江戸時代に酒造業が産業として発展したのは、江戸初期に米の生産が拡大したことによって米の価格が相対的に下がり、酒造に用いられる米の量が増えたからだ、などと先に書いた。歳入の多くを米の売り上げに頼っていた幕府からしても、酒造用の需要が増えることで米の価格は上昇し、実入りは大きくなるわけだから、酒造業が発展することのメリットは大きかった。

 しかし、当時の農業は気象災害などに対して脆弱でもあったから、不作や凶作に度々襲われ、ひどいときには飢饉が起こることも少なくはなかった。そうなったら、酒などという不要不急の嗜好品など造っている場合ではない。米がとれない年には幕府によって酒造りは厳しく統制され、場合によっては酒蔵は廃業をも余儀なくされた。

 また、酒造業はうまくいった場合には非常に儲けの大きな産業だったが、その分幕府による税(運上金や冥加金などと呼ばれた)の収奪も大きかった。江戸時代の酒造業は、酒を造る以前の問題として米の値段や幕府の意向に左右される部分が大きく、いざ酒を造るうえでも腐造や火落ちによるリスクにさらされるという、ハイリスクハイリターンの非常に不安定な商いだったと言えるだろう。

 とはいえ業界全体としては、日本酒産業は江戸時代を通じて成長を続け、明治以降産業革命が起こるまでは国内トップの巨大産業として、日本の経済の中で大きな役割を果たしていた。

 

 江戸時代の酒蔵が、どのような品種の米を使っていたか、は残念ながら僕にはわからなかった。手持ちの資料を漁ってみた限り、酒造用途に限定して使われていた米の品種は、たぶん無かったのではないかな、と思っている。

 というのは、江戸時代の酒蔵の経営者や杜氏が、米の品種名を知ることはほとんどなかったはずだからだ。江戸時代の酒造関係者が米の品質に無頓着だったからではない。当時の米の流通方法からすると、生産者以外は米の品種に注目する機会はおそらく無かっただろう。

 江戸時代の農民たちに掛けられてた年貢という税は、天領、あるいは藩によって制度は若干異なるのだが、ざっくりいうと、農民が所有する土地の名目上の生産量に対し、「四公六民」「五公五民」「八公二民」みたいな税率をかけ、供出させるのが基本である。

 ここまでは幕府と諸藩のやり方に大きな違いはないが、ここから先の換金方法に多少違いがあり、幕府の方はかなり複雑で説明がめんどくさいので、以下は地方の藩の場合を例にとって説明する。

 領主が農民たちから収奪した米は、一部を俸禄として家臣に分け与え、残りの大部分は大阪や江戸の蔵屋敷に移送し、市場で換金して現金を得る、という形になっていた。

 村ごととか郡ごとに、年貢米を納める倉庫が建てられており、納められた年貢は多くの場合、近くの港まで陸送された後、船によって海路大阪や江戸まで運ばれることになる(米のような重いものを運ぶ場合、陸路より海路の方が段違いに楽だから)。

 年貢を支払った後、農民たちの手元に残った米も、そのほとんどは米商人に販売して現金へと替えられていた。こうして米商人によって農民たちから買い集められた米も、同じようなルートで集荷され大阪や江戸などへと送られ販売された。

 江戸時代は農学が発達した時代であって、農民たちは米の品種に注目し、改良にも努めていたが、先に書いた通り、品種とは言っても今とは比べ物にならないほど遺伝的多様性の大きなものだった。さらに、田んぼの日当たりや土質、早晩生によって複数の稲品種を作り分けることは普通だったし、同じ村でも異なる品種が使われていたりした。

 もちろん、同じ村で稲作をしている場合、気象条件が似ているので、土地に適した米というのは大体似てくるものではあっただろう。また米の質の良し悪しは、販売する際の値段に関わってくるので、年貢の検査は非常に厳しいものだった。このことから少なくとも年貢米は、見た目がある程度均質に揃っていることを要求されたとは思われるが、年貢を納めたり米商人に販売する際にも特殊な場合(大唐米と呼ばれる自給用の赤米など)を除いて、複数の米の品種を混ぜて出していたはずだ。そのうえ、年貢が村ごとに集積される際にも、港に集荷される際にも、多様な品種の米が混ざることになり、消費者に届く段階では、米の品種などわからなくなっていたと思われる。

 実際江戸時代には米は品種ではなく、市場では例えば「加賀米」とか「肥後米」といったように、産地で分類され評価されるのが普通だった。

  江戸時代に灘が大酒造産地として発展した理由の一つは、海運に便利な海端にあったことだ。出来上がって樽詰めされた酒を輸送するだけではなく、米や水(灘の酒蔵では宮水を樽に詰め、蔵まで運びこんで仕込み水として使っていた)を運び込むのにも便利だった。また、各地から大阪へと運ばれてくる米の集積地である兵庫港に近かったため、原料米の入手にも有利だった。このことは、酒造に適した米を選ぶのにも有利な立地だったと言えるのかもしれない。

 灘で酒造米として主に使用されていたのは、現代でも酒米の主産地として名高い播州米(兵庫県加東郡、葛西郡、美嚢郡、明石郡)と摂州米(大阪府三島郡)である。やはり、品種に関しては定かでないが、江戸時代後半~明治にかけて、近畿地方では大粒晩生米が流行していたようなので、これらは案外酒米らしい見た目の米を使っていた可能性もある。

 買い付ける米の生産地がある程度決まっていて、酒造用途としてその目的が限られているのであれば、酒造家と生産者が連携して酒造に適した米を作っていた例もあるかもしれない、と思って調べてみたのだが、僕が調べた範囲ではそういう資料は見つからなかった。

 現在、灘の酒蔵では「村米制度」といって、酒蔵が各村と契約して酒米を買い取る制度を導入しているが、この制度は意外と歴史が浅く、明治維新以降に低下した酒造用米の質を向上させるために、明治二十四年(異説によると明治二十六年)から始められたそうだ。それ以前の事はよくわからない。

 

 主食用と酒造用の米との使い道で、どこが一番が違うのかというと、主食用に比べて酒造用の方が精米歩合がはるかに高い点だろう。普通の飯米は上白で精米歩合92%(玄米の8%を削ってヌカにする)だが、酒造用の場合少なくとも精米歩合70%(玄米の30%を削ってヌカにする)程度まで削るのが普通だ。

 酒を造る際、なるべく米を白く(精米歩合を高く)した方が良い、という事は古くから経験的に知られていたが、精米技術そのものが未熟だったために、望むとおりに精米することは難しかった。

 古くからある精米方法としては、石臼に玄米を入れて、もちをつくように杵でつく、というやり方がある。杵で米をついた衝撃と、米同士の摩擦によって玄米の胚芽や糊紛層が取り除かれる。原始的ながら広く普及した方法で、江戸の町では杵と臼を担いだ精米屋が長屋などを回って、注文を受けては精米を行っていたそうである。

 しかし、この方法では精米歩合がせいぜい90%程度までしか落とせないし、酒蔵のように大量の米を用いる商売では精米が追い付かない。そこで考案されたのが、唐臼と呼ばれる精米装置である。精米装置、などと言ってみたが、石臼に米を入れて杵でつくというやり方は変わらず、てこの原理を用いて杵を持ち上げる、という足踏み式の精米器具である。手でつくよりはずいぶん楽だったであろうし、精米速度も上がっただろうが、精米歩合自体は90%程度とさして向上しなかった。ただ、労働力が安価だった時代なので、人手さえあれば設備投資がいらない唐臼は全国に広く普及し、機械式精米機が普及するようになるまで長い期間使われてた。

 一方先進地の灘では、十九世紀ごろから六甲山系の急流を利用した水車式精米機が用いられるようになり、これによって精米歩合が80%にまで向上した。この精米歩合の高さは、灘酒の品質を高め他地域を圧倒する一因にもなったとされるが、現代の基準からすると80%というのはけっこうな低精白である。酒造の教科書によると米のたんぱく質や油脂は大体精米歩合70%程度でほぼ取り除かれるという事になっており、今精米歩合80%で造られる商品には「80%の低精白で米本来の味! 」などという売り文句をつけて出されるレベルである。水車精米でこれ以上精米歩合を高めようとすれば砕米が増え、精白率に反比例して精米にかかる時間が増す。そもそも水車を利用できる土地が限られているという事もあって、機械式精米機が誕生すると速やかに立場をとってかわられた。

 明治二十一年(1888年)にアメリカでエンゲルバーグ式精米機が製造された。これはのちに「横型精米機」と呼ばれるものの原型であり、原理としては石臼と杵でつく精米方法と変わりはなかったのだが、水車式に比べると精米能力は圧倒的に高かった。摩擦によって米の表面を削り取る方式であるため、摩擦熱で米の温度が上がりやすかったり、精米歩合もやはり80%程度が限度であるといった欠点もあったが、吟醸造が過熱してきたころには「研ぎ粉」と呼ばれる研磨剤を精米する米に混ぜて、何度も精米機にかけることで、横型精米機でも精米歩合60%以上まで削って酒を造っていた例もあるらしい。

 昭和六年(1931年)になると、広島の佐竹製作所が「竪型研削式胚芽米搗精機」という画期的な精米機を開発する。従来の米同士の摩擦によってヌカを削る精米機とは違い、回転する硬い砥石によって米を削り取る方式の精米機で、この精米機の開発によって酒米精米歩合は飛躍的に向上し、高精白米が容易になった。現代では、ほとんどの酒蔵で精米歩合50%以下の大吟醸を造っているし、極端な例では精米歩合10%以下という農家に対する嫌がらせのようなお酒もある。

 しかし、高度精白が容易になったことで、唐臼や水車精米の時代には現れなかった米の問題も浮かび上がってきた。

 

 話は前後するが、そもそもどうして高度精白が必要になってきたのだろうか。もちろん精米歩合を高めたほうが酒は造りやすく、きれいで香り高い酒ができるのは間違いないが、わざわざ米の四割も五割も削ってまで吟醸酒を造らなければいけない理由はどこにあったのか? 

 ざっくりいうと、明治政府の財源確保と、新興酒造産地の出現、と二つの要因が大きい。

 明治は日本における近代国家の始まりである。江戸時代の日本は極端な話、徳川将軍家や諸藩の大名小名のための国であり、平民はお上のありがたい御慈悲によって生きることを許されているようなものだった。封建領主たちからすると、自分たちが暮らすために不足が無ければよいわけだから、現代の政治家のように自らの領地内を選挙カーで回って「皆様の生活が第一」などとメガホンで叫び回る必要は無い。官僚制度や福祉、警察力は民間にほぼ丸投げ、最小限で済ませていた。税の負担は公平ではなかったし、その使い道も一部の権力者へ極端に集中していたが、ある意味非常に小さな政府だったといえる。

 しかし明治に入り、最低限近代国家としての体裁を整えるには、新たに西欧式の公務員制度、義務教育、国民軍の創設など、様々なカネのかかる施策を断行しなければならなかった。

 そのための財源として注目されたのが酒税である。明治七年の統計によると、酒類の生産額は全工業生産額の16,8%を占める最も重要な工業製品であった。そしてその後、明治十年の西南戦争によって起こった需要増加による酒蔵設立ラッシュなどもあり、酒類の製造量はさらに増加した。松方デフレや酒税増税策の影響によって一時製造量は激減するものの、その後持ち返し製造量は漸増していく。

 酒は嗜好品であり生活に不可欠な物資ではないという理屈から、税金が過度になっても地租やその他の税金よりも国民の反発が少なかったため、比較的増税しやすい財源だった。特に、軍事費や戦費が必要になるたびに酒税が引き上げられ、日清・日露戦争戦争時にはついに歳入の三分の一を酒税が負うほどになった。今日でも「日清日露は酒飲みのおかげで勝った」と冗談交じりに語られている。

 金の卵を産む鶏を育てるために、国は酒造技術の研究を推進し、新興酒造地の発展を後押しした。

 江戸時代に品質と製造量で他地域を圧倒していたのは灘の酒だった。灘の優位は「海のそばにあることによる輸送の利便性」「発酵力旺盛な宮水」「水車精米による高度精白」「丹波杜氏の技術」「優れた原料米」といった点にあった。

 しかし、明治以降「鉄道輸送の発展」「水の研究による軟水醸造法の開発」「動力精米機による精米の進歩」「灘の酒造技術の解明、および新技術の開発」「原料米の研究と新品種の開発」などによって、次第にその優位性は揺らぎ始めることになる。

 伏見、広島、秋田などでは、地元の熱心な酒造家による招致もあって、国立の醸造研究所が解明した知見や技術を取り入れることで、灘を脅かす新たな銘醸地としての評判を高めていった。醸造研究所が醸造技術の振興を図って開催した清酒鑑評会でも、官の指導を積極的に受け入れた新興産地の入賞が目立つようになり、ついには「市場での評価を無視して、品評会向けに作った特殊な酒だけを評価する方針にはついていけない」として灘の酒造組合が参加をボイコットする事態も起こった。

 たしかに、清酒品評会が始まったころには、品評会で優秀な成績をとると酒の売り上げが急増する、というので競争が過熱していたきらいがある。出品するためだけにわざわざ何十回も精米機を通し、精米歩合を60%以上にまで高めた「吟醸酒」が誕生したのもこの頃である。

 吟醸酒は機械精米による高度精白と、香気の生産性が高い優良酵母、長期低温発酵を可能にする麹造りから酒母、もろみ管理があってはじめてつくることのできる酒であって、清酒品評会が行われるまではこの種の酒は世の中に存在していなかった。

 現代では、吟醸酒は高価ではあるにしろ、ふつうに飲まれている商品だが、昭和五十年ごろになるまで吟醸酒の存在は広く認知されていなかったため、特有の吟醸香は「薬臭い」と一般大衆には好まれず、せっかく作った吟醸酒もほとんどの場合普通酒ブレンドして販売されていたそうだ。市場ではやはり古くから名の知れた灘の有名蔵の酒が、強いブランド力を持っていたのである。

 戦前の吟醸酒の是非についてはともかく、酒造技術を学理によって解明する試みが進められる中で、酒造に適した米の正体がしだいに明らかになってきた。酒造に適するとは、酒化率が良くより多くの酒を安全に造れる原料としてだけではなく、吟醸造が過熱し始めた以降は、吟醸造に適した高度精白が可能な米、という質の面での要素も加わった。

 酒造の教科書に記されている「大粒」「軟質」「心白発現率が高く」「心白が大きすぎない」米、という酒造好適米の要件は主として、よりよい吟醸を造るために求められたものだった。

 

 江戸時代後半~明治初期に、近畿地方を中心に大粒晩生穂重型の品種が流行していた。そのころ品種として確立した「都」や「神力」「祝」「八反」「強力」「山田穂」などは、復活栽培されて酒にもなっているし、現代酒造好適米として用いられている酒米の多くも、この時期に生まれた品種が祖となっている。

 各地で栽培されていた大粒品種は、そのまま酒造用として使用されることとなったが、しだいに在来種の中でも特に酒造適性に優れた品種が選ばれるようになり、吟醸造の過熱と共に特定の品種に人気が集中するようになる。東日本でいえば「亀の尾」、西日本では「雄町」である。

 しかし、酒造に適した在来品種たちは、明治中期以降に出てきた耐肥性に優れた多収品種に比べると収量が少なく、病害虫にも弱く、栽培できる地域も狭かった。これらの欠点を改善するために、酒造適性に優れた在来種と他品種を人工交配で掛け合わせることで、酒造用米の栽培性を改善させる試みが進められることとなる。

 現代においても、最も優良な酒米品種と目されている山田錦は、酒造用として交配された品種のなかでは、初期に生まれた品種である。交配は大正十二年(1923年)に行われ、昭和十一年(1936年)に兵庫県の奨励品種として登録された。

 父親品種は雄町の変種である「短稈渡舟」、母親品種は「山田穂」で、大粒軟質で溶けが良く、線状心白で高精白に耐え、(当時の酒米品種としては)短稈で収量もよく、雄町よりも収穫期が早いので当時の品種としては栽培しやすかった。

 五百万石も品種としては古い。昭和十九年(1944年)に育成は終わっていたが、戦争のために栽培が中断され、昭和三十二年(1957年)に新潟県で奨励品種として登録された。「雄町」に短稈多収の「中支旭」を掛けた交配種「菊水」と、祖先に亀の尾を持つ「新200号」を交配して作り出された品種だ。感温性の早生種のため栽培可能な範囲が広く、冷害への耐性もあって倒伏にも強いことから、全国に栽培が広まった。

 ほかにも在来種「八反」の交配種「八反35号」や、「比婆雄町」に「近畿三十三号」を掛けた「改良雄町」など、在来種の早生化、耐冷性や耐病性の付加、収量の増大などを狙った品種改良がおこなわれた。これら在来種を直接使って交配した品種には、現代でも栽培されているものもまだ多くあるが、どちらかというと今では古い品種の部類に入る。

 山田錦や五百万石は別格として、現在広く栽培されている品種は、交配によって生まれた酒米品種を素材にして、栽培性の改良や、醸造適正の向上を狙って育成されたものが多い。例えば、「八反35号」に「アキツホ」の栽培しやすさを取り入れた「八反錦」。「五百万石」に「美山錦」の耐冷性を加えた「神の舞」などがある。

 これらの交配種をさらにさらに改良して、栽培性や醸造適正を向上させようと狙ったものも、現在各都道府県の農事試験場などで開発されていたり、普及し始めていたりする。

 大まかな流れでいうと、

 1、在来種

 (雄町、亀の尾、強力や祝などの各地の復古品種も)

 2、在来種の栽培適正を向上させた交配種

 (山田錦、五百万石、改良雄町、八反35号、たかね錦など)

 3、現在の主流品種。2をさらに改良した交配種

 (美山錦、八反錦、佐香錦、神の舞など)

 4、これから先の主流品種。3をさらに改良した交配種

 (現在開発中であったり出始めたばかりのもの。腐るほどある)

 という感じになるんじゃないかな。

 人工交配によって新たな品種が生まれるのは十年先なので、育種目標を定める際には十年後の未来を予測しておかなければならない、と言われているそうだ。つまり品種のトレンドは十年周期くらいで移り変わってくるということか。

 ただ話は酒米に限らないのだが、十年前に書かれた「十年後の未来はこうなる!」などという予測を今になって検証してみると、大抵は笑えるくらい当たってないので、こんなアホみたいな予測を当時の識者が散々偉そうな態度でほざいていたんだろうなと思うと、とても笑える。未来の情勢を予測するのは誰にとっても難しい。

 酒米品種の開発は、各都道府県の農事試験場が担っている。最近は地酒としての特徴をもっと出していきたいという思いからか、「わが県(都道府)で開発した品種で酒造りを! 」みたいな風潮が高まっているような感がある。凝った名前の品種なども多く登場してきて、調べていると結構面白いのだが、その育種目標については別に従来と革新的に異なるものではないようだ。

 たいがい「現行品種の栽培特性の改良」か「山田錦を改良して導入」の二パターンである。この辺に、ちょっと問題があるような気がする。