孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話③

          

 

 遺伝とは、親から子へと形質が受け継がれる現象である。おそらく太古の昔から、子供は親に似る、という事実は経験から認識されていて、作物を育種していく際にも考慮されていただろう。ただし、具体的にはどのような方法で、親から子へと遺伝の情報が伝わっていくのか、という事は長らく知られていなかった。

 有名なエンドウ豆の実験によって、遺伝の基本的な法則を証明したのが、メンデルである。メンデルは遺伝子(メンデル自身はこの言葉を用いていたわけではないが)という存在を仮定することで、親から子へと形質が引き継がれていく仕組みが説明できることを、長期間の手間がかかる実験とそこから得られた統計データの裏付けを元に示した。残念ながらメンデルの研究は、1865年の発表時には顧みられることが少なく、メンデルの没後しばらくたった1900年(明治33年)になって、複数の生物学者が同様の法則を再発見した際に、メンデルの業績が掘り起こされたことでようやく広まった(この再発見の経緯には学者のどろどろとした名誉欲と足の引っ張り合いが絡んでいて面白い)。

 この頃にはまだ「遺伝子」とは仮定的な概念で、「こういうものがあったとすれば遺伝の法則をうまく説明できるよ」という仮説にすぎなかった。その後、細胞の核にある染色体がどうやら遺伝子の実体なのではないか、という事が分かってきて、1952年になってようやく、染色体の中にあるDNAという物質が遺伝子の正体であり、その二重らせん構造によって遺伝子を後代に伝えている、という遺伝のメカニズムが明らかにされた(ワトソンとクリックが解明したとされる有名な二重らせん構造も、発表されるまでの経緯は実はかなりドロドロしている。こちらは面白いというより、ただただノーベル賞をもらえなかったロザリンド・フランクリンが気の毒で胸糞が悪くなるばかりだが)。

 ざっくりいうとDNAは、二重らせん構造の内側にある梯子のような部分(塩基)の並び方(塩基配列)によって、遺伝情報を保持している。DNAの保持する遺伝情報は、生命にとっての設計図のようなもので、生き物の体はこの設計図によって形作られている。

 

 ところで、作物における「品種」とは「他と区別できるような遺伝的な特徴を持つ集団のこと」と説明されるが、これは「同じ品種内であれば同じ遺伝子型を持っている」という事を意味しない。DNAの塩基配列は、クローンでもない限り、まったく同じという事はあり得ないからだ。

 栽培品種を育成する際に目を付けられる形質は、例えば「背の高さ」や「分げつの多少」といったような(DNAが保持している遺伝情報全体の大きさから言うと)少数のものに限られる。これらの形質を支配する遺伝子さえ揃っていれば、他の部分のDNAの塩基配列が多少違っていても実用上は問題ない。

 

 「一つの種」とみなされている集団の中に、実際にはDNAの塩基配列が大きく異なる個体が含まれている場合、その種は「遺伝的多様性が大きい」と表現される。明治時代の「品種」は現代でいう「品種」に比べると、はるかに遺伝的多様性が大きかった。

 おそらく昔の人は、栽培するうえで重要な形質以外の部分の差異には今より寛容だったと思う。自家採種を行う場合に、あまり厳密なこと言ってたら、大変すぎてやってられないぜっ!

 それに、形質を揃えようとして遺伝的な多様性を小さくしすぎると、病気に弱くなったり繁殖力が弱くなってきたりもする。よく「純血種の犬は体が弱い」などと言われるが、あれも同じことだ。ある程度の遺伝的多様性が保たれてなければ、逆に種としての活力が失われる。

 農家が各自で自家採種を行って、めいめい好きなように栽培しているのだから、そもそも品種に対する厳密に定められた統一見解など存在しようがなかった、という事もあるだろう。「雄町は大粒」という認識があったとしても、大粒というのはどのくらいのものを指すのか、基準は人によってさまざまだろうし。

 明治新政府という日本を統一支配する組織が現れたことの意味は大きい。全国の様々な品種を、農事試験場という一つの機関が一定の基準・方法で比較すること自体、江戸時代にはありえないことだったから。ある意味、農事試験場が各地の在来種を集めてその性質を比較した時に、初めて「この品種はこういうもの」といった品種の特徴が発見されたのかもしれない。

 

 育種採種方法が整っている現代の品種でも、農家がテキトーに自家採種をしていれば、自然交配と突然変異によって種の遺伝的な多様性が増大して、少しずつ元の品種とは性質が変わってくる。このことを俗に種がボケるという。

 稲は基本的には自家受粉を行う植物だが、実際の田んぼの中では一パーセント程度の確率で他家受粉も行われている。また、突然変異によって遺伝子型が変化した種子も出てくる。

 一目でわかるような違いなら、排除されるかあるいは「変わり穂」として抜き出されるだろうが、見た目には違いが見えないが実は遺伝子型が異なる、という場合には見落とされ種の中に混入する。人間による選別が行われない限り、エントロピーは常に増大していく。

 だから現代では、種の変異が起きぬよう厳密に管理された田んぼで作られた種もみを買って、定期的に種子更新を行わなければ、その品種(例えばコシヒカリとか山田錦とか)として出荷することを禁止するルールがあったりする。というか、現代の農家のほとんど百パーセントは購入した種モミを使っているから、このルールに引っかかる人はまずいないのだが。

 しかし、元々の遺伝的多様性が大きかったうえ、種もみはほとんど各農家が自家採種で得ていた時代の「品種」は、今と比べ物にならないほど雑駁だったはずだ。

 

 様々な遺伝子型を含む種子が各地に広まった際、その地の気候や環境、または採種を行う人の考え方や癖によって、異なる形に分化する。寒い地域なら比較的寒さに強い形質を持つ遺伝子型の種が自然と生き残るだろうし、粒の大きい米が好きな育種者ならそのような種が選ばれるだろう。そして、分化した先で突然変異や自然交配が起これば、元の品種の姿からはさらにかけ離れていく。

 古い在来種、例えば「雄町」の場合には、「赤磐雄町」や「比婆雄町」、「短稈渡舟」などといった、各地で分化した性質の異なる様々な種がみられる。

 現代では考えられないことだが、明治の三大品種が幅を利かせていた時代には、雑駁な種であってもあまり気にする人はいなかったらしい。「神力」は一時期日本の栽培面積の二割を占めるほどにまで広まったが、その人気ゆえに、当時としては珍しく組織された採種組合があったにもかかわらず、種もみの生産が追い付かないほどで、過熱する需要を各地の農家が自家採種で補った結果、品種の混交や変質によって本物なのかどうかも怪しい種子まで「神力」の名で栽培されるという、わけのわからない状況になっていたらしい。最近になって、「神力」は復活品種として数か所で栽培されて酒米に使われているそうだが、「神力という品種は栽培されている土地によって特徴が異なるのが特徴」などという頭痛が痛くなるような話もある。

 「愛国」も広く栽培されていたが、この品種もまた「変わり穂が出やすいことで有名」であって、各地の篤農家たちの手によって、様々な変異種が分離されている(かつて山陰地方で広く栽培された銀坊主もそう)。おそらく遺伝的にはかなり雑多な種だったのだろう。

 このような雑多な種子の中から、特に優れた性質を示す種を選抜して固定する操作を「純系選抜(あるいは純系分離、純系淘汰)」と言う。

 「純系選抜」によって、あやふやだった「在来種」を遺伝的に揃った「育成品種」へと変えることが、官営組織による近代的な育種の第一歩だった。

 

 様々な遺伝子型を持つ稲の集団の中から、有望な種を分離する操作、なぞというとなんだか難しげに聞こえるかもしれないが、理屈の上では簡単なことである。実際に作業するとなるとなかなか大変だと思うけど。

 試験田に苗を一本ずつ田植えしていき(通常の田植えでは数本の苗を一緒に植えるので、一つの株には複数の種子から生えた異なる遺伝子を持つ穂が混在するが、一本ずつ植えていけば一株に含まれる遺伝子は一つの種子に由来する)、それぞれの株の生育具合や収量などを比較して、有望そうなものをいくつか選ぶ。

 選ばれた株は「系統」と呼ばれ、この系統別にまた一本植えを行って、株の性質を比較する。

 複数の系統の中から、もっとも優れた性質を示す系統を選び、その種子を増やして新たな「品種」とする。

 単純ながら、雑多な集団に対して行った場合には非常に効果的な方法である。優れた性質のものをピックアップするだけでなく、登熟期も揃うようになるので歩留まりが高くなる。選抜前と選抜後を比較した場合、平均すると一割程度の増収効果が見られたという。

 ちょっと細かい話になるが、純系選抜が行われる前の雑多な状態の品種は「在来種」、そこから純系選抜によって分離された品種は「育成種」と呼び、区別される。「雄町」を例にとると、岸本甚造によって発見されてから農家が自家採種を繰り返しながら広まった時点では「在来種」。その在来種の中から純系選抜によって選び出された「赤磐雄町(現代の岡山で栽培されている雄町)」とか「滋賀渡舟六号」といった品種は「育成種」である。

 雑多な在来種はもちろんのこと、育成種の場合にも、母集団が異なったり選抜された際の目的や過程は異なったりするはずだから、一口に「雄町」といっても様々な特徴を有するものが存在することになるわけだ。

 

 ところで、古い品種を純系選抜することによって得られた育成種は、名前でだいたいの選抜過程を妄想できるのでおもしろい。たとえば「滋賀渡舟六号」の場合、「雄町の一変種である渡舟を、滋賀県農業試験場が純系分離を行って、そのなかの系統六号が有望だったから選ばれたんだろうか」などと(実際にこの通りだったのかは知らないが)色々想像が膨らむ。育成された年代から「育成の目的は食用としてだったのか、酒造用としてだったのか」とか、「酒造用だったとすれば、まず収量を優先したのは当然として、この当時はたぶん酒化率優先で、精米歩合はそこまで高くしなかったはずだから、雄町の持つ特性の中でも特に軟質で心白が大きい系統が選ばれたのだろうか」などと、根拠のない想像が広がる。別に飲んだところでその辺のことがわかるわけでもないのに、復古品種で作られた酒と聞くと、いつも何となく買ってしまう。楽しい。

 最近は、消費者へのアピールも狙ってか、インパクトのある名前や凝った名前の品種が増えているけど、育成系統名そのままとか、両親の名前から一字ずつ取っただけのものとか、武骨で商売っ気のない名前のほうが僕としては楽しめるので、そういうのがもっと増えてくれたほうが嬉しいのだが。

 

 雑駁だった明治の三大品種の時代を経て、昭和五年を境としていわゆる「統一品種」の時代に入る。各地で栽培されていた様々な在来種に置き換わって、近代的な育種法によって選抜された少数の育成品種が広く栽培されるようになる。

 東北では「亀の尾」から「陸羽百三十二号(陸羽二十号(愛国の純系選抜種)と亀の尾の純系選抜種の交配種)」へ。北陸山陰では「大場」「石臼」から「銀坊主(愛国からの選抜)」へ。中部から近畿以西では「神力」から「旭(日の出より選抜)」へ。

 これらはいずれも当時としては強い耐肥性をもつ短稈多収品種だった。