孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話⑦

       

 

 そもそも、山田錦を越える酒米が今まで出てこなかったのは、何故だろう?

 山田錦が良い酒米であることは言うまでもないが、それでも普及から八十年以上たった今でも、これよりも良いとされる米が生まれてこないのは、不思議ではないか。

 理由はいくつか考えられる。一つには、「良い酒米山田錦」という循環論法が行われている点にある。「良い酒米を作ろう」と思い立ったとき、「じゃあ良い酒米ってなんだ?」と考えたあげく、しばしば「山田錦は良い米だから、山田錦みたいな米を作ろう」などという結論になりがちではないだろうか。佐々木希は美人だし、佐々木希に似ている人はたいてい美人だろうが、いくら似ていようが所詮はそっくりさんである。オリジナルに似ていることが存在意義であるそっくりさんは、オリジナルを上回ることは決してない。似ていれば似ているほど使い分けし難くなる。ほとんど区別のつかない米があったとしたら、どうせ使うならオリジナルのほうが良いと、ほとんどの人は思うだろう。そのへんがブランドの力である。

 もう一つには、育種目標が「山田錦の栽培しにくさを改善する」という方向へ向かいがちだという点にもあるだろう。山田錦はご承知の通り、背が高く、病気には弱く、晩生であるため栽培可能な範囲が狭い。よって現在主流の品種に比べて栽培しにくいと言われている。だから、品種改良によって栽培性を改善することは、至極まっとうな方向であることには間違いない。

 ただ、山田錦の持つ醸造適正は、かつての大粒穂重型品種の血を濃く引き継いでいるために、発揮されている面も多いのではないか。少量の肥料を使って効率よく体を大きくする性質は、米のたんぱく質を少なくし千粒重を大きくすることにつながった。登熟期の遅い晩生品種であることは、種子へのデンプンの蓄積が緩やかになるために、米の消化性が良くなる重大な要因である。

 収量を増やすために山田錦の草型を改変したり、栽培地域を広げるために登熟期を大幅に前倒しにしたりすることは、山田錦の持っている醸造適正を多かれ少なかれ損なう原因になる。もちろん、山田錦の持つ優れた遺伝子のいくらかは子孫に受け継がれるだろうが、生き物の性質は持っている遺伝子だけですべてが決まるわけではない。環境によって決定される要因も大きいのだから、稲の成長過程を大幅にいじくって、生育する環境を変えておきながら、その結果である米の性質は全く変えないなんて芸当は、稲という植物の生理から考えてもちょっと無理があるのではないか。

 本当に、そんなことが、できるんだろうか?

 もしそれが可能なのであれば、栽培しにくい山田錦がこれほど長い年月の間君臨し続けるようなことはなかっただろうから、やっぱりそれは本質的に難しいことなのではないか。

 山田錦ほどではないにしろ質が良くて、作りやすく廉価な米は、もちろん開発されるべきだ。

 しかし、山田錦の栽培面積が拡大しているだけでなく、山田錦以上に作りにくいはずの昔の品種が復活され、あちこちで栽培されている現状を見ると、何が何でも「短稈多収で病気に強く広域で栽培可能な性質」を酒米に組み入れる必要は無いのでは? 

 農家の望む栽培の容易さと、醸造化の望む醸造適正を同時にかなえようとすると、どうしても中途半端になってしまうというのなら、いっそのことどちらかに絞ったうえで一点に特化した品種を作ってみるのはどうだろう? すべての人には受け入れられないかもしれないけど、なにかしら強烈な個性を持っていれば、多様性へと向かっている日本酒業界なのだから誰かは拾い上げてくれるんじゃなかろうか。

 極端な話だが、大粒軟質だが心白がほとんどなく精米歩合30パーセント以上の超高精白に向く品種とか、逆に心白が極端に大きくて溶けやすいけど80パーセント以上磨くと割れちゃう低精白向けの米とか、収量高くその分たんぱく質も多いが含まれるグリテリンの割合が低く雑味はでにくい掛米用の低コスト米とか、山田錦や雄町よりもさらに登熟期間が長く消化性が良いけど、暖い土地でしか作れない雄町以上に晩生の大晩生品種などといったようなものがあれば、それは総合力では山田錦に及ばないとしても、他に代えがきかないという点で、存在意義は大いにあると思う。

 「山田錦の代替品として優秀」なんて消極的な評価ではなく、「山田錦ではなくあえてこの米を使いたい」という積極的に選ばれる理由にもなるだろう。

 各都道府県の農業試験場で開発されている品種は確かに優秀で、農家も醸造家も共に満足できる性能を備えているはずだ(でなければ新品種として採用されるはずがないのだから)。でも、県は異なれども育種目標が同じならば、結局出来上がる品種は似たりよったりなものになってくる。

 地酒は地場産業だから「地元で開発された米で酒造りを」という方向性は理にかなっているように思えるし、酒を売るうえでもよいPRポイントになることは間違いない。だが、いくら凝ったひねった名前で地方っぽさをアピールしても、実体はどれもほとんど変わらないものだとしたら、客はいつまでもそんな些細な違いを追いかけてきてくれるのだろうか。

 

 些細な違いであるから、意味がないと言いたいわけではない。むしろ、些細な違いを持つ選択肢がたくさん存在することには、大きな意味があると僕は考えているのだが、それは消費者にとってよりも栽培農家にとっての意味だ。

 例えばの話だが、酒米に比べると、野菜の品種の数ははるかに多い。その割に酒米の「山田錦! 」とか「八反錦! 」などのような、品種名を前面に出して売られることは少ない。野菜の品種の場合は、食味についても勿論考慮はされているが、多くは栽培方法とか気象条件、作期別に、適した品種が開発されているからだ。品種名は栽培する農家に向けてのものであり、それがアピールポイントになる場合(良食味として有名とか)には宣伝されることもあっても、消費者は毎日食べている野菜に個別の品種名があることすら知らないことが多いんじゃないか。

 野菜の品種の場合は民間の種苗会社が開発を行っている。そのため当然品種の販売には県単位の縛りなどなく、気候を元に区分したり、あるいは用途別に分けてさまざまなものが開発されている。

 気候による区分は作物を栽培する上で重要な問題であり、同じ島根県内であっても、僕の住む邑南町と益田市では平均気温も日照時間も全然異なってくる。だが、県が異なっても北陸とか、東北日本海側の中山間地には邑南町と気候的に似た地域がたくさんあると思う。県単位で栽培できる品種が制限されていたら、もしこれらの地域のどこかで最適な品種が開発されたとしても、それを開発した県(の一部の地域)でしか適地栽培できないという事になる。

 それから、用途についても問題がある。収穫期を分散するために、登熟期の異なる品種を使おうと思った場合、酒米は比較的少数の品種しか存在しないので、それぞれの品種が最適な作期にうまくはまらない、といったこともありうる。

 僕は元々野菜の栽培をメインにやっているので、酒米づくりを始めた際、品種の選択肢の少なさと不便さに驚いた記憶がある。

 たとえば僕は、収益の柱の一つとしてトウモロコシを栽培しているのだが、一去年(2017年)使った品種だけでも十種類を越えている。まず、七月中期頃から収穫できる極早生種(去年初めて試した作型だったので、品種の適否を知るために四種類栽培して比較した)。七月後半から八月頭が収穫期の品種。八月中旬くらいまでの品種。八月後半くらいまでの品種。八月後半以降の遅穫り品種(これも試験栽培だったので三種類)。それから直売所向けのホワイトコーンを収穫期別に三種類。忙しかったので結局栽培はできなかったが、来年以降のことを考えて試験栽培を検討していた品種もいくつかあった(現在主力で栽培しているのは食感がいいが味落ちの早い品種。これらはやや栽培が難しいので、もっと僕の管理する圃場の条件と作付け体系に合いそうな品種を試したり、食感は少し落ちるが糖度は高く味が落ちにくい品種を導入して売り先別に使い分けるとか、直売所向けに人目を惹く見た目の品種とかを試して、客の反応などを確認しておきたかった)。

 もちろんトウモロコシと酒米とでは商品としての性質や売り先、売り方が大きく異なる。トウモロコシの場合は直売メインだから、多数の客が喜んでくれて、高値でも買ってやろう、という気になってくれることが、農家にとっての願いである。だから、作る時期や売り先に合わせて多様な品種の作り分けが必要になってくる。

 酒米の場合には、少数の顧客(醸造家)を対象にするので、作物の規格や生産量を調整する必要がある。特に純米酒など特定名称酒の場合、「この米をこのくらい量使ってやろう」というのはかなりはっきり決まっているものだと思う。だからどの品種がどのくらい必要かは、客の都合によって大きく左右される。好き勝手なものを作ったって、欲しがる相手がいなければ売れるわけがない。日本酒の場合、単一の米を使って仕込んだ酒、というのは消費者にPRしやすい要素だと思うので、あまりごちゃごちゃと品種を増やすのは、醸造家にとっては面倒なことかもしれない。

 とはいえ、農家の都合を言わせてもらうと、細かいことを言えば同じ町内でも、地形によっては土が変わるし、気象条件、日照はあちこちで違ってくる。さらに、個々の農家の農業スタイルによっても、合う品種合わない品種は変わってくるわけだから、米の場合でも最適な品種を使い分けることができるのなら、もっと質の良い米が作れるようになるのにな、と言うのが本音である。刈り取りとか乾燥が面倒になるから、むやみに栽培品種は増やせばよいというものでもないけど。

 「酒米ハンドブック」という本には、百五十種類以上の酒米品種が紹介されている。この本を読んでいると、「この品種は面白そうだな、この品種をこういう作型で作ればうちの気候条件や経営に適合しそうだな」などと思うものがいくつもある(だいたいカタログには良いことしか書いてないので、実際に栽培してみなければその適否は判断できないものではあるが)。ただ現実には、島根県で奨励されている品種以外の種はまず手に入ることはなく、仮に手に入ったとしても、使う事ができない場合が多い。

 「地元で開発した米で地酒づくりを」などという考えのもとに開発された品種の場合、いくら栽培に適した地域が他県にあっても、独自性を守るために保護される向きがある。また、愛山のように希少性で売っている品種は、ブランドを安売りしないために他地域で栽培することを制限している。ラベルに記載された酒米の品種名が、酒の内容を示す広告文句のように扱われているので、そのネームブランドを維持するためにみんな必死なのだろう。

 酒米種子は育種の主体が民間ではないこと、そして米の生産と検査、販売ルートが画一化されているために、正直、酒米作りは野菜作りに比べてやりたくてもできないことが多いな、と感じる。もちろんこれらの制約は、酒米品種の種としての均一性を保つことや、生産された米の品質を建前上維持するために、必要なものなのかもしれないが。

 だが、本来ならもっとマシなものを生産できる選択肢があるというのに、それを選ぶことは許されないなんて現状は、一農家としてはとても残念に思う。もっといろいろ作りたいのに!

 品種改良にかかった努力とコスト、種を維持するための労力、品種の名声を高めるために行われた尽力に対しては大いに尊重したい。先人たちの苦労を無視して、「自分の好きなように品種を使わせろ」と言いたいわけではない。でも、もうちょっと何とかならないもんだろうか。