孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

帰ってきたヨッパライ。あるいは、酒米育種のこれまでとこれからの話⑤

         

 

 種の変異は、遺伝子の突然変異によっておこる。突然変異の多くは、DNAの塩基配列に変異が起こったとしても見た目にはわからないような変異であったり、栽培する人間にとっては別に得でも損でもないような中立の変異であることが多い。また突然変異によって形質に何か変化が現れるとしても、人間にとってプラスなことよりマイナスの影響が出る可能性のほうが高い。

 例えばの話だが、正常に動いているラジオを分解して、気の向くままランダムに配線を繋ぎ変えたら、正常に動作する場合よりも、ダメになる場合の方が圧倒的に多い。間違った経路の配線が無数にあるのに対して、正しい配線は一つしかないからだ。まるっきり動かなくなる可能性は高いし、万が一動いたとしても、配線が入れ代わっているので、ボタンがいくつか機能しなくなったり、ボタンを押して対応する機能がでたらめになってたりするようなことになるだろう。

 ところで、どこかで聞いた話なのだが、ラジオの配線をいじくるとトランシーバーとして使うことができるようになるらしい。だから、ランダムに配線を繋ぎ変えることでたまたまラジオがトランシーバーのように機能するようになる、ということは可能性としてはありえなくもないが、その確率はとても低い事も想像できる。

 遺伝子の突然変異自体それほど頻繁に起こるわけではないし、それが人間にとってプラスの性質になる確率はもっと低い。さらに、人間にとってプラスの性質になったとしても、それを栽培している人間が見出すことができるとは限らない。

 まともに動かなくなったラジオに向かって、とりあえず話しかけてみようか、などと思いつく人間の数はさほど多くないだろう。そんなことをしている姿を他の人に見られたら、こいつなんか変な電波でも受信してるヤバい奴じゃないか、とか思われても仕方ない。

 そんなわけで、育種の手段を突然変異のみに頼るとなると、非常に長い時間と多くの偶然が必要になってくる。

 

 幸い、稲は自家受粉によって生殖をおこなう自殖性の植物なので、突然変異によって生じた形質は子孫に引き継がれる可能性が高い(突然変異によって生じた遺伝子は劣勢であることが多いから、他殖性の植物の場合にはせっかく獲得した性質が、変異を起こしていない他の株の遺伝子と交雑することで希釈されてしまう)。人間にとって有用な突然変異をおこした変わり穂は、その性質を維持したまま栽培され、突然変異による遺伝子の変化を繰り返すことで、人間にとって有用な性質を蓄積していくチャンスが得られる。もっとも、有用ではない突然変異が起こる可能性のほうが高いわけだから、種が劣化していくことも大いにあり得るのだが。

 栽培化された稲は、長い年月と努力によって、人間にとって有用な突然変異が蓄積されたものだと言えるだろう。

 そして、稲は基本的に自殖性の植物ではあるが、実際の圃場では1パーセント程度の確率で他家受粉によって交雑を起こしている。遺伝的に多様な種が交じり合う圃場では、自然交雑によって親とは異なる性質の子供が生まれることもしばしばあったはずだ。

 たとえば、米粒の大きさを決定するのは、米粒の幅、厚さ、長さなどの要因であり、これらの要因は複数の遺伝子が少しずつ影響する事で決定される(微動遺伝子とよばれる)。同じような大きさの米粒同士であっても、それにかかわる遺伝子が異なっていれば、交雑してできる子供は親よりも大きくなる、という事はあり得る。

 突然変異によって有用な性質が生じる可能性は高くないが、長い期間をかけて有用な突然変異を蓄積してきたさまざまな種が、圃場内で自然交雑を繰り返すことで、有用な性質が数少ない個体に集約されて、人間にとってより都合の良い性質を持つ種へと変化が促進されたのだろう。

 

 ただし、突然変異にしても自然交雑にしても、人間の意志で引き起こすことはできない。現代でこそ放射線処理による突然変異の誘発や、人工交配によって二つの品種の望ましい性質を組み合わせる、といった手法が一般化しているが、知識も技術も不十分な時代にはこれらは不可能だった。だから明治以前の在野の篤農家にできることはといえば、ただひたすら田んぼを観察して立派な穂を見つけたり、冷害に辛うじて生き残った稲の穂を増やしたりといったように、受動的に種の変転の結果を探し出すことだけだった。

 明確に目的をもって選抜したというよりは、見つけやすいものを見つけてきた、という部分は多かっただろう。江戸時代末から明治初期までに、穂重型の大粒品種が流行ったのは、一目見てそのすごさがわかるから、新たな品種として農民たちに発見されやすかった、という理由もあったのではないか。

 人間の意志によって品種を作り変える試みが始まったのは、農事試験場が誕生して以降の話になる。

 明治三十一年に、滋賀県農業試験場場長であった高橋久四郎によって、国内初の稲の人工交配を行われた。

 国の農務省農事試験場で人工交配の試みが行われたのはそれから六年後の明治三十七年(メンデルの法則再発見の四年後)で、農事試験場畿内支場の加藤茂苞技師が交配を行い、二十組み合わせの雑種を得た。人工交配という手法自体が手探り、というか、メンデルの法則が本当に正しく、稲にも当てはまるのか、ということ自体不確かな状態だったので、この試みは困難を極めた。

 

 ところで、稲の花を見たことはあるだろうか? 稲作を行っている農家ならともかく、稲の花を見られる機会は稀なので、もしかしたら、稲に花が咲くこと自体知らない人だっているかもしれない。稲は出穂してから二~三日後の、天気の良い日の午前中に、たったの二時間程度花を咲かせる。ネットとかで画像を検索してもらえばわかると思うが、モミの先端についた芥子粒ほどの小さな花である。

 花とはいうが、このちょこんと伸びて出てきたものは実際には花のおしべであり、めしべはモミの中に存在する。おしべから放出された花粉は、開化のためにわずかに開いたモミの隙間を通り抜けてめしべに到達し、受粉を行う。

 実際に稲の花が咲いているところを見ると、見るからに他家受粉を受け入れそうにない様子から、なるほど稲って自殖性の植物なんだ、と納得させられる。むしろ、実際の圃場では一パーセントも他家受粉が行われている、という事実に驚かされるほどだ。

 そして、このように巧妙に他家受粉を防ぐ仕組みを持った稲の人工交配を行うのは、技術的にも大変だ。明治時代に行われていた初期の人工交配の方法ではまず、開花が予想される日の午前中に、開花寸前のモミを切り開いて、伸びかけているおしべを花粉を出す前に切り除いていく。おしべを切除し終わると、その穂に袋をかけて周囲からの花粉による他家受粉を防ぐ(これが母親品種になる)。交配したい稲(父親品種)の花粉を集めてきて、細い筆の先などでおしべを切除した花のめしべに付着させる。その後も花粉の飛散が収まるまでは袋をかけて目当ての品種以外の他家受粉を防ぐ。

 あの小さなモミを切り開いて、さらに小さな雄しべを切除していくというのは考えただけでも大変な作業である(現代では、温湯除雄法といって、熱で母親品種の花粉を殺す、もっとやりよい方法が利用されている)。そのうえ、交配したい種同士の開花期も同じ日にしなければならないわけだから、その調整も難しい。たとえば早生と晩生を交配する場合には、晩生の品種の株の方に短日処理といって、株に箱を被せたりすることで遮光し日長を調整して、稲に「そろそろ穂を出す準備せなあかんな」と勘違いをさせるための操作も行わなければならないのだ。教科書が出ていて理論もわかっている現代ならともかく、手探りでこれらのノウハウを得なければならなかった時代の育種者は、どれだけ大変だったことだろうか。

 明治四十一年には1862個の交配種子が得られ(つまり少なくとも2000回近くこのような細かい作業が繰り返したという事だ)、そのうち1080個の種子が発芽したが、そのうち人工交配が成功して雑種になっていたのは390個にすぎなかったという。発芽した種子の中での交配成功率はたった36パーセント。ほんと、大変すぎて気が遠くなるような話である。

 

 交配によって生まれた子供(雑種第一世代)は、両親からの遺伝子を半分ずつ受け継ぐ。

 例えばの話であるが、ある稲の持つ「茎が短い」という性質と「米粒が小さい」という性質をつかさどる遺伝子を、それぞれ「AABB」と表すとしよう(Aが茎短、Bが米粒小)。一方、別の稲の「茎が長い性質」と「粒が大きい」性質を「aabb」(aが茎長、bが米粒大)とし、「AABB」と「aabb」はそれぞれ対立する遺伝子であり、「A」「B」のほうが優性遺伝だとする。

 この二つの稲が交雑すると、子供の遺伝子型は両親から半分ずつ受け取るので「AaBb」というものになる。「A」「B」が優性遺伝なので、子供の見せる形質は「茎が短く米粒が小さい」というものになる。

 この「AaBb」の遺伝子型を持つ稲を栽培して自家受粉によって種子を作った場合、生まれてくる稲(雑種第二世代)の遺伝子型は「AABB」「AABb」「AAbb」「AaBB」「AaBb」「Aabb」「aaBB」「aaBb」「aabb」の9通りになる。

 この中から「茎が短く米粒が大きい」形質の稲を選び出す場合、(遺伝子は目に見える実体ではないので)見た目だけで判断すると「AAbb」と「Aabb」の二つの遺伝子型の種子が選ばれることになる。

 「AAbb」はホモなので自家受粉を行っても生まれてくる子供は同じ遺伝子型のものばかりになるが、「Aabb」が自家受粉を行うと四分の一の確率で「aabb」の遺伝子型を持つ、「茎が長くて粒が大きい」形質の稲が生まれてくることになる。

 (ただし実際の稲の形質を司る遺伝子は、ここまで単純なものではない。はるかに多くの対立があるし、「粒の大きさ」や「たんぱく質の量」などのように複数の遺伝子が関与している形質もある。また、優性や劣性という関係性がはっきりしていない不完全優勢の性質などもあるので、種の性質が固定されるまでには、もっと時間がかかる。

 さらに最近の研究によれば、特定の遺伝子が発動する・しないは周囲の環境に左右される場合もあるとか、なんと獲得形質が遺伝する(!)という話もあるらしい。遺伝子型だけで生き物の性質がすべて決まるわけではない)。

 

 初期に行われていた人工交配の試みでは、系統育種法という方法で、雑種第三世代という若い世代から選抜が行われていたようだ(現代では集団育種法というやり方で、雑種第五世代までは種子を混合して栽培し、形質がほぼ固定されてから純系選抜によって有望な系統を選出する)。この方法にもいくつかのメリットはあるものの、選抜の際の労力が集団育種法に比べて大きかった。

 人工交配によって新たな品種が得られるのは交配から十年後、だとよく言われるが、国の農事試験場で初めて人工交配が試みられてから、実際に交配種が生産の現場で普及するようになるまでにはそれ以上の時間がかかり、大正時代中頃になってようやく交配種が栽培面積を拡げはじめた。

 大正元年に交配が行われ、交配種としては初期に普及した陸羽百三十二号は、亀の尾の跡を継ぐようにして東北地方で栽培面積を広げた名品種である。陸羽二十号(愛国の純系選抜種)と亀の尾四号の交配種で、耐冷性が強く収量もよい(ついでに味もよかった)、当時岩手で農業高校の講師をやっていた宮沢賢治も絶賛していた品種として名高い。昭和六~十年に東北を襲った冷害は、この品種がなければ被害が十倍に拡大していただろう、とも言われている。

 明治時代に農事試験場が集めた三千五百余りの在来種はその時点では、長い年月をかけておおむね偶然と幸運によって、有用な性質が集約された種だった。これらの在来種が持つ性質を明らかにし組み合わせることで、さらに多くの有用な性質を集約することが、人工交配の目的だった。偶然に頼っていた従来に比べて、望む性質を意図して集約できるようになったため、育種のスピードと効率は段違いに上がった。

 当時の育種目標は単純明快で、まず「収量」それから「耐病性」が来て、寒冷地向けの稲の場合「耐寒性」という事になる。「品質」とか「味」は、考慮には入れられてはいたが、あくまで二の次三の次であった。

 残念ながら、このような目的で育成された品種は、酒造用としては不適なものがほとんどだったので、酒造用としては引き続き昔ながらの大粒穂重型の在来種が利用されていた。しかし、交配種と比べると、在来種は収量や耐病性の面で大きく劣った。そのため、在来種の特性を残したまま欠点を改善するために、酒造用米でも交配が行われるようになった。