孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

八反流

「八反流」

 

 来歴

 明治八年(1875年)に、広島県の大多和柳祐が在来種から「八反草」を育成。

 明治時代、三浦仙之助によって「軟水醸造法」が確立されるなど、酒造業が技術的にも産業面でも大きく発展した広島で、県産の酒造好適品種としてこの「八反草」が見出された。

 「八反草」は当時の酒造用米としては珍しく早生の品種で、千粒重が大粒米の雄町などに比べるとやや小さかったり、米質が固いといった欠点はあったものの、醸造適性は良好だったらしい。

 この「八反草」が島根県に入って普及したものが「八反流」と呼ばれ、その後「雄町」と並んで島根県酒米品種の源流になる。

 「八反流」も当時の米としては早生であり、出穂期は八月上旬である。稈長は90~100センチと長く倒伏しやすい上、案の定というか、例によって例のごとく病気にも弱い。草型は典型的な穂重型。千粒重は23グラム程度で酒米としては小さめだが、心白発現率はそこそこ高かったようだ。しかし、他の「八反」系に共通する特徴だが、「八反流」にも米質の硬さがあったらしい。

 島根県では大正七年に奨励品種として登録され、純系分離によって生まれた「八反流1号」「八反流2号」も含むと、昭和十八年まで栽培されている。特に「八反流2号」は栽培されていた期間が長く、「改良八反流」の親にもなっている。

 「改良八反流」は島根県内でいくつかの酒蔵が使っているが、その親である「八反流」を使っているところは今のところまだ無いと思う。

 

 この品種(八反流二号)に関しては、平成三十年度に試験栽培を行った。品種特性はこちら