孤独の発明

主に米作りとか酒造りについて

島根県でかつて酒造用に用いられていた米の品種について

 暇だったから、島根県で開発された酒米品種について軽く調べていた。

 といっても、島根県酒米品種については、2017年に発刊された「別冊山陰キラリ」という雑誌に載せられている「島根県産の酒米の変遷」という記事に詳しいので、基本的にはこの記事をそのままパクっ……大いに参考にさせてもらった。

さんいんキラリ別冊 神々を魅了した島根の酒

さんいんキラリ別冊 神々を魅了した島根の酒

 

 島根県の場合、明治時代中ごろまでは、わざわざ酒造用に品種を選んで栽培するようなことは少なく、その土地で多く栽培されている在来種が、そのまま酒造用として使われているケースが多かったとされている(※)。

 そもそも他に選択肢がなかったんじゃないか。ワインの原料であるブドウなどは、主食である麦が栽培できないような条件の土地で、基本的に酒の原料として栽培される商品作物であったが、日本酒の原料である米は日本人の主食だ。実は、民族の主食を酒にするというのは、世界的に見るとけっこう珍しいことらしい。確かに、古くからある酒と言えばワインやシードル、ヤシ酒なんかだし、ビールの原料になる大麦は欧米では主食用に使われることは少なくもっぱら酒造原料だ。

 理由としては、米の単位面積当たりの生産性が麦類に比べると格段に大きいという事があっただろう。天候に恵まれて米の余剰生産分などができれば、それを酒にすることで、カサも減るし付加価値も付くし、米の生産過剰による値崩れなども防げたりもして色々良かったのかもしれない。

 特に、新田開発によって米の価値が相対的に低下し、幕府が米価維持に躍起になっていた十七世紀末くらいからは、米価の調整装置として酒造業が果たす役割は非常に大きくなってきた。

 だが、江戸時代は気象災害・天災による不作凶作(少なからず人災の側面もある)が周期的に発生していたので、そういった災害が発生して余剰米云々言っている場合でなくなると、時の政権は「酒造禁止令」を出して、酒造用米の供給を止めた。明治以前の日本酒産業は、腐造によるリスクのみならず、米の出来不出来とお上の気まぐれ次第で原料の確保ができなくなるというリスクもあった。酒蔵の歴史はだいたい凶作の歴史と、それを受けて発令される為政者の規制との闘いであって、何十~何百年と続く老舗の多い業界ではあるが、その創業年代のほとんどは、米の生産量が安定して酒造業に対する規制が緩やかだった時期に集中していることからも、その辺の事情はうかがえる。

 昔は今と比べると年毎の米の生産量が不安定であったことから、収量に関するインセンティブは大きかったと思われる。農家にとっても、醸造用に特化した米ばかり作るというのは難しかっただろうし、醸造家にとってもあまりわがまま言ってられなかったんじゃないかと思う(※)。元禄頃に書かれた酒造技術書「童蒙酒造記」も、まずは米の買い方に関する記述から始まっている。心白がどうだとか消化性がどうだとか言う以前に、安定した質のものが安定して手に入るだけで、当時としては「良い米」だったんじゃないか。

日本農書全集 第51巻 農産加工 2

日本農書全集 第51巻 農産加工 2

 

 島根県では明治時代初期には「亀治」という品種が広く栽培されていたので、酒造用にも使われることが多かったようだ。

 明治時代中期には、当時酒造用として評判の高かった「雄町」「都」「神力」などが試験栽培されていたらしい。明治二十二年に島根県種育場が設立され、明治三十七年には県下各郡に採種圃場も作られ、以降本格的に官による組織的な育種事業が始まった。

 明治後半~大正になると、酒造用の奨励品種として「亀治」「雄町」「穀良都」「八反流」などが普及するようになった。

 明治~戦前にかけて、酒造用として最も声望の高かった酒米が「備前雄町」である。ただ、質が良い分値段の方もよろしかったようで、島根県内の他の米に比べると五~六割程度高値であった。「雄町を島根でも作れないか」という事で、県内各地に導入され、県内では比較的温暖な益田市浜田市で主に栽培されるようになったという。

  昭和十二年度に行われた、酒造用に使われた原料米品種の調査によると、一位が銀坊主(5700石)、二位が雄町(4500石)、三位が曲玉(4000石)、五位が八反流(2900石)、六位が旭(1700石)、七位が八雲(1400石)という結果だった(穀良都は昭和七年に奨励品種から外されたのでここには無い)。

 統計に残っているという事は、それなりに広く栽培されていた品種という事。当時の反収は多く見積もってもせいぜい三石(450キロ)ぐらいのものだろう。という事は、七位の八雲の栽培面積は、酒米として使われていた分だけでも少なくとも50ヘクタールくらいはあったはず。たぶん普通に、今の佐香錦よりも栽培面積は広い(佐香錦は2005年のデータだと15ヘクタールらしい)。

 銀坊主は愛国から選抜された耐肥性の強い多収品種であり、当時山陰地方で主に栽培されていた一般米。旭も食用としての用途が主の品種だ。曲玉と八雲も奨励品種として登録されていたわけではなく、元々は飯米だったのだろうが、戦前には酒造用としてよく使われていたそうなので、それなりに使いやすい米であったようだ。

 

 大正七年から純系選抜によって育種された品種が栽培されるようになる。

 明治時代くらいまでの品種は在来種といって、同一種内でもばらつきがあるのが普通だった。各地の農家がめいめい好きなように自家種どりを行い、選抜していたので、種どりしている人の癖や混種、突然変異、自然交配などが絡み合って、たとえば「雄町」と呼ばれる一つの品種内であっても、大きな変異が存在した。これらの異なる遺伝子を持つ種が入り混じった群の中から、収量の多い品種であったり、病害虫に強い品種、また早生や晩生をより分けて、揃いの良い品種に選抜する操作が純系選抜(あるいは純系淘汰と言ったりもする)で、純系により分けられた品種は育成種と呼ばれ、在来種とは区別される。純系選抜の効果は絶大で、選抜前の在来種と比べると、平均で十パーセント程度の増収効果があったと言われている。

 「亀治」から「亀治1号」「亀治2号」「亀治3号」。雄町から「雄町1号」「雄町2号」。穀良都から「穀良都1号」「穀良都2号」、八反流から「八反流1号」「八反流2号」などが選抜育成されて、奨励品種として在来種と置き換わっていった。

 

 戦後は、昭和三十五年に人工交配によって「雄町」と「八反流」からそれぞれ「改良雄町」「改良八反流」という新たな品種が生み出され、さらに昭和四十二年には「改良雄町」の短稈早生化を狙った品種「幸玉」が生み出された。

 昭和五十一年に入ると、新潟生まれの大品種「五百万石」が島根県でも奨励品種として栽培されるようになり、そのあおりを食らって似たような作型の「幸玉」と「改良八反流」は栽培面積を一気に減らした。

 平成五年の大冷害で、耐冷性のさほど強くない五百万石に被害が大きかったため、五百万石に美山錦の耐冷性を付加した「神の舞」が生み出された。

 さらに、吟醸ブームによって高精白が可能な米の需要が増していたことから、山田錦とたかね錦を親に持つ「金紋錦」と、島根県独自の「改良八反流」を掛け合わせた「佐香錦」が開発された。

 現状(2018年)、島根県で酒造用の奨励品種として登録されているのは、「改良雄町」「五百万石」「神の舞」「佐香錦」の四品種である。

 色々調べていたら、島根県で独自に栽培されていた品種についての記述がちらほらと見つかったので、わかった限りの情報を品種毎にまとめてみた。

 米の来歴については、菅洋著の「稲ー品種改良の系譜」や、

稲―品種改良の系譜 (ものと人間の文化史)

稲―品種改良の系譜 (ものと人間の文化史)

 

  農研機構の稲品種データベース九州大学のデーターベースなどから引用した。

 品種の特性については、ジーンバンク(※※)、および上の九州大学のデータベースの中の、戦前に行われた栽培試験、さらに復活栽培されている品種に関しても一応調べてデータを集めてみた。

 ただし、少量の試験栽培によって得られたデータは変動が大きい。手に入る限りのデータを併せて、情報を総合的に判断しているが、マイナーな品種が多いため栽培記録の母数が少ないことと、そもそもそれをまとめている僕がまるっきりの素人であることから、かなりいい加減なものになってしまっていると思う。米の特性に関する記述は、たぶん正確なものではないと思うが、以下「大体そんな感じだったのかな」くらいに考えて読み飛ばしてほしい。

 なんとなく気になった品種、「福山」「京都旭一号」「中生曲玉」「八雲」「亀治」「元祖亀の尾」「雄町一号」「八反流二号」「幸玉」については、ジーンバンクから種を取り寄せて、個人的に栽培試験を行ってみたが、農業試験場で行われているような正式な手順を踏んで栽培調査を行ったわけではないので、いい加減なものである。

 しかし、やってしまったものは仕方ないので、一応参考としてそのデータも付記して置く。

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(試験栽培中の稲の様子。この写真には見る人が見ればわかる、試験栽培として致命的な失敗がいくつかある)

 

 (※)江戸時代の品種について調べてみると、必ずしも収量や耐病害虫・耐冷性一辺倒ではなく、意外にも米の品質に気を配って育種されていたことがわかった。これは当時の年貢制度とか米の流通販売の事などが絡む壮大なテーマであり、まだ資料の読み込みが足りないのではっきりしたことは言えないが、個人的な推測では、明治以前の段階でも、灘や伊丹などの酒造先進地では、酒造用に選抜された米が使われていたとしてもおかしくはないな、と思っている。

 

(※※)ジーンバンク

「農業生物資源ジーンバンクは、農業分野に関わる遺伝資源について探索収集から特性評価、保存、配布および情報公開までを行う事業です。茨城県つくば市の農研機構遺伝資源センターに本部(センターバンク)を置き、全国各地にある植物・微生物・動物・DNA各部門のサブバンクと連携して我が国の食料・農業上の開発および利用等に貢献するための生物遺伝資源の国内外からの収集・受入、増殖・保存、特性評価、配布および情報の管理提供ならびに生物遺伝資源の高度化のための試験研究を行うとともに、海外の試験研究機関等との協力により遺伝資源の保全に取り組んでいます。」

 ジーンバンクのHPより引用。

 古い在来種もたくさん集められており、よくある「一度は生産が絶えてしまった幻の品種を、手のひら一杯分の種もみから増やして復活させた! 」みたいなのは、大抵このジーンバンクから種を取り寄せている(ジーンバンクから配布される種子は、稲の場合五十グラムが一単位なので、手のひら一杯分の種もみになる)。ちなみにここから配布された種子は基本的には商業用に使うことはできない。